大阪や京都では、皮膚が細かく粒立つあの状態を「さぶいぼ」と呼びます。寒い、と、疣。名づけの手つきが共通語とまるで違うことに、まず足が止まります。共通語のほうは見えたものをそのまま写して、羽をむしった鶏の皮に似ているという外見で名づけた。関西の語形は、外見を見ずに原因のほうを名前にしている。同じ現象を前にして、片方は目を使い、片方は皮膚感覚を使った。
三つ目の名づけ方が、専門の領域にあります。医学では立毛と呼び、毛穴のそばにある小さな筋肉を立毛筋と呼ぶ。交感神経が働くと、この筋が収縮して毛が起き、毛の根元が押し上げられて皮膚が盛り上がる。体毛の厚い動物なら、毛の間に空気の層をつくって保温し、あるいは体を大きく見せる役に立つ仕組みです。人間はその毛をほとんど失ったので、機構だけが残って効果を上げられずにいる。外見で名づける日常語、原因で名づける方言、機構で名づける学術語——同じ皮膚の上に、三種類の視点が同時に成り立っている。
名づけ方はまだあります。粟立つ、と書けば穀物の粒に喩えていることになり、総毛立つ、と書けば毛のほうに焦点が戻る。鶏の皮、寒さ、粟粒、毛。四つの名前がそれぞれ別の部分を掴んでいるわけですが、この四つは使える場所が違います。粟立つはほぼ書き言葉専用で、会話で口に出す人はまずいない。総毛立つも同じで、地の文に置けば収まるのに、台詞に入れると人物が急に文語を喋り出したように響く。方言と共通語の差と同じくらい、話し言葉と書き言葉の差もはっきりした位相の断層です。
位相の差は、意味の側にもあります。この言い方が古くから引き受けてきたのは寒さと恐怖でした。強い感動や感嘆を表すのに使う用法は比較的新しく、国語辞典によっては近年の用例として注記されるようになっています。年配の書き手が感動の用法を強く嫌い、若い書き手がまったく気にしないという断層は、実際にしばしば見かける。同じ日本語を使いながら、この一語だけは世代でまだ揃っていない。
ただ、誤用が広まったという整理でこの断層を片づけると、見落とすものが出てきます。生理の側から見れば、恐怖でも寒さでも強い感動でも、交感神経が急に高まるという点は変わらない。皮膚は最初から感情のラベルを区別していなかった。日常語のほうが恐怖と感動を別の箱に入れていただけで、用法の拡大は、語が身体の実態に追いついた過程だとも読める。とはいえこの説明も行き過ぎで、語の意味は生理で決まるのではなく、使ってきた人々の慣習で決まります。ここは決着させずに、両方置いておくほうが正確でしょう。感情の名前が先にあって身体を仕分けたのか、身体の反応が先にあって名前が後から追いついたのか。この順序をめぐる問いは、情動の研究でも長く決着していません。
書く側にとっては、この不揃いがそのまま材料になります。現在この表現は、恐怖・寒気・感動の三方向へ同時に開いている。だから単独で置くと方向が決まらず、読者は文脈から補うしかない。温度の語を近くに置けば寒さへ寄り、音や声を置けば恐怖へ寄り、拍手や息を呑む描写を置けば感動へ寄る。あるいは語形そのものをずらす手もある。地の文で立毛と書けば臨床の目線が立ち上がり、会話で「さぶいぼ出た」と言わせれば、その人物の育った土地と身体が一度に立つ。どの層の語を選ぶかが、そのまま誰の目でこの場面を見ているかの指定になっている。しかも三方向へ開いているぶん、方向を決めずに置けば読者ごとに違う感情が立ち上がってしまう。世代の断層が残っている語は、書き手にとって曖昧さの原因であると同時に、どちら側に立つかを表明できる場所でもある。