千回呼ばれる名前——ライトノベルの固有名詞を音から考える
長編で最も繰り返される語が主人公の名前だとすれば、読者が意味より先に覚えるその「音」を疎かにはできません。
小説の中で、主人公の名前ほど繰り返される語はそう多くありません。会話で呼ばれ、地の文で主語に立ち、章題や粗筋にも顔を出します。仮に一場面で十回、全百場面なら千回です。読者はそのたびに漢字の意味を吟味するわけではなく、名前をひとつの音の塊として処理していきます。「蒼真」という表記に込めた青の意匠より先に、ソーマという三拍の響きが記憶に刻まれます。固有名詞とは、意味を運ぶ前にまず音である。名付けを考えるとき、この順序を出発点に置きたいのです。
では音は何を運ぶのでしょうか。心理学には、丸い図形と尖った図形に「ブーバ」「キキ」という無意味語を割り当てさせると、多くの人が丸い図形をブーバと呼ぶ、という有名な実験があります。日本語話者を対象にした研究でも、濁音が大きさ・強さ・重さの印象と結びつきやすい傾向が報告されています。ガ行やダ行の響きを持つ名が巨大な怪物や強敵に付けられやすい、という書き手の肌感覚には、一定の裏付けがあると考えられているわけです。
ただし、これは傾向であって法則ではありません。音象徴の効果は語や文脈によって揺れることが知られており、名前の印象は物語がいくらでも上書きします。柔らかい響きの名を持つ人物が作中最強の剣士だったとき、その落差はむしろ人物の輪郭を際立たせる。つまり音の印象は、従うべき規則ではなく、乗るか外すかを作者が選べる素材です。狙って外すためにも、その名がどちら側の響きに寄っているのかを、名付けた本人がまず把握しておく必要があります。
実務としてまず点検したいのは、意図しない同音の衝突です。剣士サクヤは「昨夜」と完全に同音であり、夜の場面に置けば読者の頭に別の語が一瞬よぎるかもしれません。次に、主要人物どうしの音の重なりです。頭の一拍と拍数が同じ名前が並ぶと——アキラとアスカのように——流し読みの速度では取り違えが起きやすくなります。ライトノベルは会話文の比重が高く、名前が発話される頻度も高い形式ですから、この呼び分けの視認性は、文芸一般より重くのしかかります。
もうひとつ、名前は縮むことを想定しておきたい点です。日本語の愛称は「ナオキ→ナオ」のように語頭の二拍を残す形が多いと指摘されており、四拍五拍の長い名は、作中の人物からも読者からも、ほぼ確実に短縮されて呼ばれます。つまり、作者が設計したとおりの音でその名前が流通するとは限りません。命名の段階で、縮めたときに残る二拍がほかの誰の名とも衝突しないか、それ自体で心地よく響くかまで確かめておくと、愛称・呼び捨て・敬称付きという呼び名の運用が、長編を通して安定します。
名付けは、執筆前に行う数少ない不可逆な決定のひとつです。文体は推敲で直せますが、千回繰り返された名前を途中で差し替えることは、読者の記憶ごと書き換えるに等しい。だからこそ最初の一回だけは、意味と表記に加えて、音で名前を選んでみてください。声に出して十回呼んで飽きない響きか、仲間が叫んだとき、敵が吐き捨てたときにそれぞれ違う顔を見せる音か、物語の最後の一行でもう一度呼ばれたときにその音が立つか——それが、千回の反復に耐える名前の条件だと思うのです。