比喩の多くは、対象から性質をひとつだけ切り出してきます。氷のようだと言えば冷たさが選ばれ、鉄のようだと言えば硬さが選ばれる。ところが空を行く生き物を引き合いに出す言い方は、性質を指定しないまま成立しています。軽さなのか、速さなのか、拘束のなさなのか、骨まで空洞であることの脆さなのか。指定されていないのに、読み手はたいてい迷わない。この宙ぶらりんの出どころを、語の内側ではなく、語が使われてきた時代の側に探してみます。
人が自力で空へ上がれなかったころ、「空を行くもの」として指させる実物は、ほとんど鳥に限られていました。雲も煙も星も、行くのではなく、ただそこにある。日本で最初の動力飛行が東京の練兵場で行われたのは一九一〇年で、そこからの百年余りで、空を占める物体は急速に増えます。旅客機、ヘリコプター、気球、人工衛星、そして手のひらに載る無人機。比喩の材料としては競合が現れたことになり、独占が崩れれば古い比喩は摩耗するはずでした。
ところが摩耗していない。飛行機のようだ、という言い方が軽やかさをまったく表さないことを考えると、理由が見えてきます。機械が空へ行くには燃料と推力と轟音が要る。重さを力でねじ伏せている以上、そこから引き出せるのは速さと巨大さであって、軽さではない。技術は比喩を殺したのではなく、担当区域を切り分けたわけです——飛ぶという行為そのものは機械の側へ渡り、無音で、重さを感じさせないという部分だけが生き物の側に残った。競合が現れたことで、かえって焦点が絞られた。
速さのほうを担っていた時期も、実務として存在しました。伝書鳩は近代の軍や報道機関で実際に運用され、電信線の通らない場所から報せを持ち帰る手段として働いています。無線通信が行き渡るにつれてその役目は終わりますが、比喩の側にはこの期間の記憶がわずかに残った。急を告げるもの、遠くから戻ってくるもの、という含みは、羽のある生き物を出したときにいまも薄く付いてきます。速さそのものは機械へ譲ったのに、報せを運ぶという役割の記憶だけが語の側に残っている。技術に置き換えられた語が、置き換えられる前に果たしていた社会的な機能を、含みとして保存することがある。
もうひとつ、近代の暮らしが押し込んだ層があります。籠に飼われた鳥を束縛の像として使う言い方は古くからあり、飼い鳥が広く出回って都市に暮らす人が増えるにつれ、この対比は身近な実感を伴うようになりました。空にいるほうは自由、籠の中にいるほうは不自由。同じ生き物が両極に配置されているので、この比喩を使うと、いま檻の外にいるという含みがうっすら付いてくることがある。軽さを言ったつもりが、直前まで閉じ込められていた気配を連れてくる。
そう考えると、この言い方を裸で置くのは損です。読み手は焦点を自分で決めなければならず、たいていは最も擦り切れた「軽い」に落とす。属を一段下げるだけで像は結び直します。燕なら軌跡の鋭さ、鷺なら滞空の静けさ、鶏なら地面から離れられない胴の重さ。速度を書きたいのか、重力からの独立を書きたいのか、それとも檻の記憶を残したいのか。決めたうえで種名か動作を一語添える。それだけで、百年前に空の独占を失ったこの比喩は、まだ十分に働きます。