合格発表の掲示板の前で、両足が地面を離れるほど跳ねた人を、これまでに何人見たでしょうか。記憶をたどると、思ったより出てこない。にもかかわらず、この動詞は喜びと驚きの定型として、いくらでも思い浮かぶ。実際の目撃と、言語の中での在庫が、ずいぶん食い違っている。
用法を並べてみると、大半が慣用の側に寄っていることがわかります。「飛び上がるほど嬉しい」「飛び上がって驚いた」。ここで身体が実際に宙に浮いたかどうかは、誰も検証しないし、検証を求められてもいない。話し手も聞き手も、字義通りには受け取らない契約を結んでいる。誇張表現が成立する仕組みとして、しばしばグライスの会話の含意が引かれます。明らかに事実でないことを言うことで、事実の記述ではない何かを伝えている、という説明です。誇張は嘘ではなく、嘘だと双方がわかっているから機能する。
ところが、ここで妙なことが起きる。地の文に「彼は飛び上がった」と書くと、読者はふつう身体運動として読みます。慣用のほうが優勢な語なのに、文脈が変わると字義が戻ってくる。会話文と地の文で、同じ語形が別の読まれ方をする。おそらく地の文には、書かれたことは起きたこととして扱うという、別種の契約が働いているのでしょう。誇張の許可が下りているのは会話の側だけで、描写の側では許可が失効する。
誰が誰について言うか、という軸でも振る舞いが変わります。自分のこととして「飛び上がりました」と書くとき、たいていそれは誇張の申告であって、聞き手は身体運動を想像しません。ところが他人について「彼女は飛び上がった」と言うと、話し手は自分が目撃した出来事を報告している構えになる。同じ動詞が、主語の人称によって、誇張の宣言と観察の報告に分かれる。自分の内側は誇張してよく、他人の外側は誇張してはいけない——この非対称は礼儀の問題というより、話し手が何について権限を持っているかの問題でしょう。自分の感情の強さは自分にしか測れないので、いくら盛っても検証されない。他人の身体の動きは、その場にいた誰にでも検証できてしまう。
もう一つ、この語には方向の偏りがあります。喜びにも驚きにも使えるのに、悲しみには使えない。飛び上がって悲しむ、とは言えない。身体反応として考えれば、驚愕の瞬間の全身の伸展と、歓喜の瞬間のそれが似ているからだ、という説明はつきそうです。ただし似ているだけでは、言語が両方を許す理由にならない。実際、震えは恐怖にも怒りにも寒さにも使えるのに、跳躍は下向きの情動を拒む。上へ向かう運動は上へ向かう感情としか結ばれない——この対応の頑固さは、身体の事実というより、言語が採用した比喩の筋の通し方に見えます。
書く側にとって効いてくるのは、この語が観察者を要求するという性質のほうです。人が一人でいる場面で跳ねさせると、読者は無意識に問い始める。誰がそれを見ているのか、と。喜びを誰にも見せずに済ませたい人物なら、この動作を与えた時点で設定が崩れます。逆に、見られていることを前提に生きている人物には、この動作がよく馴染む。跳ねるかどうかではなく、跳ねられる場所にいるかどうか。動作の選択が、そのまま人物の社会的な位置の記述になっている。