飛び上がる

【とびあがる】動詞

使い分けの視点

実際の跳躍なら足場や着地まで見せ、慣用的な驚喜なら「びくりと」「小躍りする」で反応の幅を選びます。「宙に舞う」は滞空、「飛び退き」は危険からの距離、「仰け反る」は上体の動きが中心です。視点人物が目撃できる動作かも確かめます。

同義語

同品詞の類義語

跳ね上がる
躍り上がる文芸的
宙に舞う文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

腰を浮かせる
背筋を伸ばして跳ねる

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

弾かれたような
ばねのような
鹿のように文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

ぴょんとcolloquial
びくりとcolloquial
勢いよく

体言的言い換え

用言を体言に変換

歓喜の跳躍文芸的
飛び退き

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

小躍りするcolloquial
身を翻す文芸的
仰け反る

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

飛び上がるほどエッセイ関連

例文: 暗室の肩を急に叩かれ、私は飛び上がるほど驚いた。

実際に跳ねた人を、何人見たか

合格発表の掲示板の前で、両足が地面を離れるほど跳ねた人を、これまでに何人見たでしょうか。記憶をたどると、思ったより出てこない。にもかかわらず、この動詞は喜びと驚きの定型として、いくらでも思い浮かぶ。実際の目撃と、言語の中での在庫が、ずいぶん食い違っている。

用法を並べてみると、大半が慣用の側に寄っていることがわかります。「飛び上がるほど嬉しい」「飛び上がって驚いた」。ここで身体が実際に宙に浮いたかどうかは、誰も検証しないし、検証を求められてもいない。話し手も聞き手も、字義通りには受け取らない契約を結んでいる。誇張表現が成立する仕組みとして、しばしばグライスの会話の含意が引かれます。明らかに事実でないことを言うことで、事実の記述ではない何かを伝えている、という説明です。誇張は嘘ではなく、嘘だと双方がわかっているから機能する。

ところが、ここで妙なことが起きる。地の文に「彼は飛び上がった」と書くと、読者はふつう身体運動として読みます。慣用のほうが優勢な語なのに、文脈が変わると字義が戻ってくる。会話文と地の文で、同じ語形が別の読まれ方をする。おそらく地の文には、書かれたことは起きたこととして扱うという、別種の契約が働いているのでしょう。誇張の許可が下りているのは会話の側だけで、描写の側では許可が失効する。

誰が誰について言うか、という軸でも振る舞いが変わります。自分のこととして「飛び上がりました」と書くとき、たいていそれは誇張の申告であって、聞き手は身体運動を想像しません。ところが他人について「彼女は飛び上がった」と言うと、話し手は自分が目撃した出来事を報告している構えになる。同じ動詞が、主語の人称によって、誇張の宣言と観察の報告に分かれる。自分の内側は誇張してよく、他人の外側は誇張してはいけない——この非対称は礼儀の問題というより、話し手が何について権限を持っているかの問題でしょう。自分の感情の強さは自分にしか測れないので、いくら盛っても検証されない。他人の身体の動きは、その場にいた誰にでも検証できてしまう。

もう一つ、この語には方向の偏りがあります。喜びにも驚きにも使えるのに、悲しみには使えない。飛び上がって悲しむ、とは言えない。身体反応として考えれば、驚愕の瞬間の全身の伸展と、歓喜の瞬間のそれが似ているからだ、という説明はつきそうです。ただし似ているだけでは、言語が両方を許す理由にならない。実際、震えは恐怖にも怒りにも寒さにも使えるのに、跳躍は下向きの情動を拒む。上へ向かう運動は上へ向かう感情としか結ばれない——この対応の頑固さは、身体の事実というより、言語が採用した比喩の筋の通し方に見えます。

書く側にとって効いてくるのは、この語が観察者を要求するという性質のほうです。人が一人でいる場面で跳ねさせると、読者は無意識に問い始める。誰がそれを見ているのか、と。喜びを誰にも見せずに済ませたい人物なら、この動作を与えた時点で設定が崩れます。逆に、見られていることを前提に生きている人物には、この動作がよく馴染む。跳ねるかどうかではなく、跳ねられる場所にいるかどうか。動作の選択が、そのまま人物の社会的な位置の記述になっている。

文: hakadoru.ai 編集部

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