辞書にない音を作る自由——ライトノベルとオノマトペの生産性
既存の擬音を使うか、自分で作るか。その小さな選択が、文体の立ち位置を静かに決めていきます。
日本語のオノマトペには、ほかの語彙と少し違う性質がひとつあります。いまも新しい語が作られ続けている、ということです。名詞や動詞の新語の多くが外来語や複合語として外から入ってくるのに対し、擬音語・擬態語は、書き手が音の組み合わせから直接こしらえることができます。辞書に載っていない音を書いても、読者はそれをおおむね読めてしまいます。言語学の分野でも、日本語のオノマトペは新語が生まれやすい生産的な語類だと指摘されており、マンガやライトノベルはその生産の現場であり続けてきました。
なぜ作った音が読めるのか。語形に共有された型があるからだと考えられます。「がたがた」のような繰り返しの ABAB 型は動きや音の継続を、「がたっ」のような促音止めは一回きりの出来事を表す、という読みの慣習が広く共有されています。「ごろごろ」と「ごろり」でも同じ対比が働きます。この型を守っているかぎり、初めて見る音でも読者はおおよその時間構造——続いているのか、一瞬で終わったのか——を受け取れます。造語の自由は、型の共有に支えられた自由なのです。
もうひとつの足場が清濁の対です。「きらきら」と「ぎらぎら」、「さらさら」と「ざらざら」、「とんとん」と「どんどん」では、清音側に軽さや細かさ、濁音側に重さや粗さの印象が寄る傾向があると指摘されています。音そのものが意味を運ぶのかどうかは学問的に議論の続く領域ですが、対が体系をなしていること自体は、書き手にとって十分実用的な手がかりです。ひとつの語を思いついたら、その清濁を入れ替えた語がどんな場面に合うかも、なかば自動的に定まってくるからです。
では、既存の語を使うのと作るのと、どちらがよいのでしょうか。既存語の強みは速度です。「ドキドキ」と書けば説明ゼロで伝わり、読みの流れを一切せき止めません。ただしその速さは匿名性と引き換えです。誰の文章にも現れる音は、どの文章の音でもない。戦闘や日常の描写で擬音の使用頻度が高くなりやすいライトノベルでは、この損益がとりわけ表に出ます。共有財産に寄りかかるほど、文は読みやすくなり、それと同じ速度で、少しずつ固有の顔を失っていきます。
一方で、作るしかない場面もあります。魔法の駆動音や異世界の機械、実在しない生き物の鳴き声がその典型です。現実に対応物がない以上、写し取るべき音がそもそも存在せず、ライトノベルはまさにこの必要に押されて語を作り続けてきたジャンルです。ただし型から離れすぎた音は、読者の頭の中で再生されません。実務的な落としどころは、ABAB 型や促音止めといった共有の枠を保ったまま、音をひとつふたつずらすことです。「ごうん」ではなく「ごおん」、「きん」ではなく「きぃん」。半歩だけの造語が、読める新しさを作ります。
既存の音を使うか、半歩ずらすか、まるごと作るか——一語ごとのこの判断は小さく見えて、積み重なると文体の座標になります。共有財産に寄る文章は速く、造語に寄る文章は固有になる。どちらが正しいという話ではなく、自分の文章がどこに立ちたいかという話です。次に擬音をひとつ書くとき、その一語が辞書から来たのか、自分の耳から来たのかを確かめてみてください。答えがどちらであっても、確かめたという事実のほうが、文体を作っていきます。