座っている人は立ち止まれない。当たり前のようですが、この当たり前は少し変です。「止まる」の側には姿勢の指定がありません。車も雨も話も止まる。複合しただけで姿勢の条件が生まれるなら、前半の「立ち」が意味を持って働いていることになる。ところが日本語の複合動詞では、前項の「立ち」はしばしば元の意味を失い、勢いだけを添える接頭辞のようにふるまいます。霧が立ち込めるとき霧は立っていないし、立ち働く人は座って手を動かしていることもある。立ち去る、立ち至る、立ち返る、立ち入る——どれも立位を要求しません。それなのに、この一語では姿勢の条件が生きている。前項が薄れきらずに残った例だということになりますが、なぜここだけ残ったのかは、まだ分かりません。
主語を替えて確かめてみます。馬が立ち止まる、は言える。四足でも立ってはいる。自転車が立ち止まる、はかなり座りが悪く、車になるとほとんど言えません。とすると条件は立位そのものというより、自分の脚で進んでいた主体であること、あるいは自分の意志で進みを止められる主体であることのほうかもしれない。ただしこの説明も完全ではありません。時計の針が立ち止まる、は比喩としてなら通ってしまう。針に脚はなく、意志もない。線引きは思ったよりぼやけています。ぼやけたまま、それでも椅子に腰かけた人だけは、最後まで除外され続ける。姿勢の条件は、意志や自力歩行の条件より頑固に残っているように見えます。
アスペクトの側から見ると、また別の顔が出ます。「止まる」は変化を表す動詞で、「止まっている」は動作の継続ではなく結果の状態を指す。窓の外に人が立ち止まっている、と書くとき、その人は止まるという作業を続けているわけではありません。そして「立ち止まりつつある」はほとんど使えない。変化の途中がないのです。現実には減速から停止まで数歩ぶんの時間があるのに、語のほうはその数歩を持っていない。歩行という連続的な運動に、この語は幅のない切れ目を一本だけ打ち込む。持続を表せるのは「〜ている」の形に移ったあとで、それも停止の継続であって、停止に至る過程ではありません。
似た事態を指す表現と並べると、焦点の置き所の違いが見えてきます。足を止める、は身体の部位に寄る。歩みを止める、は行為を名詞にして抽象度を一段上げる。それに対してこの複合動詞は、主体を丸ごと一つの単位として扱っていて、部分にも行為の名前にも寄らない。だから比喩へ転用しやすいのだと思います。人生の途上で立ち止まる、と書けるのは、そこに脚も歩行も残っていないからです。転用の過程で立位はきれいに蒸発しているのに、語形の「立ち」だけが化石のように残る。第一段落で見た頑固な姿勢の条件は、比喩の側ではあっさり手放される。同じ語の中で、条件が生きている層と死んでいる層が重なっている。
書くときには、この違いはカメラの距離差として現れます。「足を止めた」と書けば読者の視線は足元へ寄り、「立ち止まった」と書けば人物の全身が引きの画に立つ。同じ段落で二つを混ぜると、寄りと引きが数行のうちに入れ替わって像が定まりません。そして幅のない切れ目という性質は、その直後に何を置くかを決めます。この語は停止の瞬間しか指さないので、静止の長さを書きたいなら続けて別の文が要る——息の音、動かない肩、背後から追い越していく人の傘。語が持っていない持続を、周りの文が肩代わりする。一語で足りると思って書くと、立ち止まったはずの場面が一拍で通り過ぎてしまいます。