「煙が広がるように不安が伝わった」と並べてみると、置き換えが効かないことに気づきます。どちらも白く、どちらも視界を奪い、どちらも空気中を満たしていく。見えているものはほとんど同じはずなのに、入れ替えると文が痩せる。差が見た目にないなら、どこにあるのか。ここから先はしばらく手探りになります。
比較して残るのは、出来事の時間的な形でした。煙は発生源を持ち、そこから外へ向かう。始まりの点があり、方向があり、原因を指させる。一方、立ち込めるほうは違います。いつ始まったか特定できず、どこから来たとも言えず、気づいたときには既に満ちている。この句が運んでいるのは白さではなく、始点を欠いた漸進という進み方のほうだった。だから原因が明示できる感情には合わず、理由の言えない不安や、誰も口にしないまま広がる空気によく載ります。
論理の側から見ると、もう一段おかしなことが起きています。「ように」の節は主張されていません。この一文が偽であっても、霧については何も偽になっていない。実際に霧は出ていないのだから、当然といえば当然です。ところが、ここで引っかかる。この文を否定形にしてみると、「そのようには広がらなかった」と読める。広がったこと自体は残り、進み方だけが否定される。主張されていないはずのものが、否定の作用を受けている。矛盾のように見えて、たぶんそうではありません。比喩の題材が実在するという中身は主張されず、その題材が指定する様態のほうは主張の一部に組み込まれている——分けて考えれば辻褄は合います。
似た形と比べると、この区別はもう少しはっきりします。「かのように」に替えると、文の性格が変わる。こちらは、実際にはそうでないことを明示する形です。事実ではないと断ってから比較に入るので、書き手が比喩として提示していることが表面に出る。裸の「ように」にはその断りがなく、比較なのか、実際にそう見えたのかが未決のまま残ります。霧が実際に出ている情景でこの句を使えば、比喩と描写が重なって読める。断りの有無という小さな差が、書き手がどこまで手の内を見せるかを決めている。
前提のふるまいも確かめておきます。否定しても「広がった対象がある」ことは消えない。つまりこの句を置いた時点で、書き手は対象の存在を既定のものとして読者に渡している。まだ不安があるかどうかを読者に判断させたい場面では、この句は使えません。判断の余地を残すつもりで書いた一文が、判断を先取りしてしまう。文体上の装飾に見えて、実際には情報の与え方を決めている構文です。
もう一つ、実務的な帰結があります。この句は始まりを特定させないための装置なので、「その瞬間」を書きたい場面とは両立しない。誰かの一言をきっかけに空気が変わった、という書き方をしておいて直後にこの句を重ねると、原因の明示と原因の不在という二つの指定がぶつかります。読者はどちらかを黙って捨てる。捨てられるのはたいてい後から来たほうです。使いどころは、きっかけを書かないと決めた場面か、きっかけがあったのに誰もそれと気づかなかった場面です。後者ならこの句は最もよく働きます。