数値は判定ではなく問いである——ライトノベルの文体を測るとき
文長のばらつきが小さい原稿は、読みやすいのか、それとも単調なのか。指標が動いたとき、何を疑うべきかを考えます。
原稿を機械で数えると、語尾の連続、文長の偏り、漢字率といった数値が返ってきます。このとき起きやすい誤解がひとつあります。数値を合否の判定として読んでしまうことです。警告が出たから直す、出なかったから安心する。この読み方は手軽ですが、道具の性能を半分しか使っていません。数値は判定ではなく、原稿への問いです。ここで何かが偏っている、それは意図か惰性か、と尋ねているにすぎません。問いとして受け取った瞬間から、同じ数値がまるで違う情報を運び始めます。
文長のばらつきを例に取ります。ばらつきが小さい原稿は、一見すると読みやすい文章に思えます。しかし全文が四十字前後で揃った文章は、一定の拍で刻まれ続けるかわりに、緩急を失います。主人公が追い詰められる場面の畳みかけも、戦いが終わったあとの長い余韻も、同じ速度で流れてしまいます。読みやすさと単調さは、ばらつきというひとつの指標の上では同じ顔をしています。値が小さいという事実は、そのどちらが起きているのかを教えてくれません。読み分けるには、その場面で何をしたかったのかという、原稿の外にある情報が要ります。
逆向きの例もあります。語尾の連続です。「〜た。」が続けば警告が出ますが、短い文で同じ語尾を意図的に連打する手法は、緊迫や畳みかけの表現として古くから使われてきました。警告を機械的に潰していくと、無自覚の癖と一緒に、選び取ったはずの文体まで削れてしまいます。検出は「そこに反復がある」という事実の指摘であって、その反復に価値がないという評価ではありません。事実と評価を切り分けること。数値と付き合う技術は、ほとんどこの一点に集約されます。
では実際にどう使えばよいのでしょうか。有効な問いはひとつで足ります。この偏りを、自分は選んだか。選んだ偏りは文体で、選んでいない偏りは癖です。両者は数値の上では区別がつきません。区別できるのは、その場面で何をしようとしていたかを知っている作者だけです。道具にできるのは偏りの存在を示すところまでで、その先の判定まで道具に譲ってしまうと、文章は警告の出ない方向へ、つまり平均へ向かって痩せ始めます。警告ゼロの原稿が良い原稿だとは、誰も約束していないのです。
漢字率も同じ構造を持っています。ライトノベルは漢字率が低めに、文芸寄りの作品は高めに出る傾向が観測されますが、傾向は規範ではありません。ジャンルの平均値に原稿を寄せることを目標にすれば、出来上がるのは平均的な文章です。平均から外れた数値は、直すべき読みにくさの兆候かもしれませんし、その原稿にしかない声の在処かもしれません。どちらであるかを決める権利は、数値の側にはありません。外れた値を直すのか残すのかは、常に作品の側から決めることです。
測ることの効用は、原稿を正解に近づけることではなく、自分の文章を他人の目で眺める視点をひとつ増やすことにあります。書いている本人には、自分の文章の拍は聞こえません。数値はその拍を外から示してくれる、いわば録音のようなものです。聞き返すのは気恥ずかしくても、聞かなければ気づけない音があります。再生して驚き、問い直し、それでも残すと決めた偏りが、やがて文体と呼ばれるものになっていきます。数値は問いであり、答えはいつも原稿の中にある。