明治の学校が椅子と机を並べたとき、子どもの身体には新しい動作が一つ加わりました。座面から腰を離して立つ、という動作です。畳の上の暮らしでも人は立ちますが、正座や胡座から立つ運びは、椅子から立つ運びとは筋肉の使い方も所要時間も違う。同じ日本語がこの二つを同じ動詞で引き受けていること自体は、珍しくもありません。ただ、洋間と椅子が広まっていくのとおおよそ同じ時期に、この動詞が別の荷物を背負い始めていることを思うと、家具の話をまったく無関係と切り捨てる気にもなれない。因果を主張できる材料はないので、ここは並べて置いておきます。
荷物というのは、決起の意味です。民衆が立ち上がる、労働者が立ち上がる。ここでの立位は姿勢ではなく、行動の開始を指しています。文語ではこの意味に「起つ」の字が当てられることが多く、革命歌の訳詞にも「起て」という命令形が残っています。起きることと立つこと——横臥から座位への変化と、座位から立位への変化は、身体としては別の運動です。それが同じ意味の場所で重なり、しかも一方は覚醒の含み、もう一方は姿勢の含みを保ったまま並んでいる。「起ち上がる」という書き方が今も見られるのは、その重なりの名残でしょう。
この用法の来歴を一つに決めるのは難しい。漢文の伝統には蜂起という語があり、そこには虫が一斉に飛び立つ像がある。一方で近代の翻訳を通じて西欧語の rise に相当する言い回しが入り、それが定着を後押ししたという見方もあります。どちらか片方だと断定できる材料を私は持っていません。ただ、由来を争うより気になることがある。この意味が広まっていく時期に、集団が一斉に同じ姿勢をとる光景——集会、行進、号令に応じた起立——が、社会の中で実際に増えている。学校の朝礼も工場の点呼も、多数の身体が同時に立つ経験を反復させます。語が新しい意味を得るのは、その意味を支える光景が日常に用意されたあとなのかもしれません。
とはいえ、歴史のせいにしすぎている気もしてきます。座位から立位への移行は、それだけで視界が一段上がり、呼吸が変わり、次の動作が可能になる。この生理的な事実は制度とも時代とも関係がない。決意の比喩に使われるのは、時代が選んだからではなく身体がそうできているからだ、という説明のほうがはるかに単純です。単純なほうを採ると、他の言語でも似た二重性が見られることの説明もつく。英語の rise にも、身を起こす意味と蜂起の意味が同居しています。とすると近代史の層は、もっと古い身体の層の上に薄く乗っているだけということになる。薄い層です。それでも、消えてはいない。
薄い層でも、書くときには確かに効きます。現代の場面で人物を立ち上がらせると、決意の含みが呼んでもいないのについてくる。それを望まないなら、動作を分解するほうが確実です。椅子の脚が床を擦る音、テーブルについた手のひら、伸びきる前の膝。三つ書けば、それは決起ではなくただの退席になる。逆に決意を出したいなら分解せず一息で書き、直後の台詞を短くする。記述の粒度を変えるだけで、同じ動詞が歴史の層に触れたり触れなかったりする。書き分けの余地があるのは、この語が二つの意味を捨てずにここまで来たおかげです。