「震」という字の上半分は雨です。下は「辰」。雨かんむりが付く字はおおむね天象に関わり、雷や霜や露と同じ列に並びます。「辰」の字源には複数の説があって一つに決めきれませんが、いずれにせよこの字がもともと引き受けていたのは、空から来る大きな揺れの方でした。地震という語がそこから出るのは自然です。腑に落ちないのは、その同じ字を、人ひとりの体に起きる細かい揺れにも使っていることの方でした。
和語の側を見ると、事情が少し変わります。古語の「ふるふ」は、自分が揺れることにも、何かを揺らすことにも使われました。粉をふるう道具の「篩」も同じ系統に連なるとされます。「振る」「降る」といった近い音の語との関係については、同源とする説が古くからありますが、断定は避けるべきところです。音が似ているから同じ根だという推論は魅力的で、そのぶん危うい。日本語の語源をめぐる議論は、この誘惑に何度も足を取られてきました。確かなのは、「ふるふ」が自動と他動の両側にまたがる、揺れの動作を広く覆う語だったということまでです。
近い意味を担う別の字を並べると、漢字側の発想がもう少し見えてきます。「戦慄」の「戦」は、いくさや戦うことを表す字です。それが「おののく」という和訓を引き受けている。戦うことと震えることを同じ一字で結んだのは、戦場に置かれた体の状態を想定したからだと考えるのが自然でしょう。「粟立つ」の方はもっと直接的で、皮膚に立つ細かい粒を穀物の粒に見立てています。震えを表す語彙は、天象から来た字、戦闘から来た字、食べ物から来た比喩が同じ棚に並んでいる状態で、それぞれ出所がまるで違う。
そこに「身」が付く。上代の「み」は身体を指すと同時に、その人自身を指しました。「身を引く」「身をやつす」の「身」は肉体でありながら、社会の中に置かれた一個の人格でもある。だから「身震い」は、肩や指先といった部分の震えとは別の階層に立ちます。震えているのは体の一部ではなく、その人まるごとだ、と言っている。震えの局所性を消して全身に広げる装置が、この一字なのでした。
形の成り立ちを追うと、もう一段の折り返しがあります。動詞から連用形で名詞が作られ、その名詞に「する」が付いてもう一度動詞に戻っている。この往復のあいだに、語は複合の資格を得ました。単なる「ふるふ」なら体の一部でも物でも主語にできますが、名詞として固まってから動詞に戻された形は、全身の一回の出来事という輪郭を持ちます。「する」を付けて名詞を動詞化する仕組みは漢語にも和語にも等しく働きますが、この語の場合、往復のあいだに主語の範囲が狭まったところが利いている。
ここまで来て、「するような」という尾部が引っかかります。この形が付いた瞬間、実際には誰も震えていない。仮定の身体反応を持ち出して、外にあるものの強度を測っている。字源をどれだけ掘っても、この転換は説明できません。語の来歴は素材の性質を教えてくれるだけで、その素材が現在どういう仕事をしているかは別に見なければならない——ここは分けて考えるべきところだと思います。
それでも、雨かんむりに戻る意味はあります。地面の揺れと体の揺れを別の字で書き分けなかったということは、この語を使うたびに、外側の世界の揺れが薄く貼り付いてくるということでもある。使うなら、体の外にも揺れているものを一つ置く。窓、灯、水面、吊り下がった何か。人だけが震えている画面より、周囲に一つ揺れる物があるだけで、この語は自分の来歴を取り戻します。