一行二十字の物理——ライトノベルは縦書きで別の速度を持つ
同じ本文が横書きの画面と縦書きの升目とで別の速度で読まれる、その物理的な仕組みを考える一篇です。
ウェブ小説は横書きで書かれ、書籍になると縦書きで読まれます。同じ文字列を運んでいても、同じ紙面ではありません。横書きの投稿画面では行の長さが端末の幅で伸縮し、どこで折り返すかは読者の環境が決めます。一方、二十字×二十行の原稿用紙では折り返し位置が固定され、作者の打った改行の外側に、二十字ごとの機械的な折り返しが生まれます。ここで立てたい命題は一つです。この折り返しこそが、読む速度と呼吸を規定している、というものです。
根拠は視線の運動にあります。黙読では、視線は行に沿って進み、行末で次の行頭へ折り返します。行が短いほどこの往復は増え、読みの速度は物理的に律速されます。一行二十字という行長では、四十字の文は二行、八十字の文は四行を占めます。つまり文の長さが、そのまま紙面上の高さに翻訳される。画面のベタ書きでは「なんとなく長い」としか感じられなかった一文が、原稿用紙の上では四行分の縦の距離として測れる量になります。
禁則処理も、この文脈に置くと違って見えます。行頭に句読点や閉じ括弧を置かないという規則は、単なる見た目の作法ではありません。句読点は呼吸の切れ目であり、それが行頭に落ちると、読者は前の行の終わりで息を継ぎそこねます。組版はこの小さな事故を機械的に防いでいます。横書きのブラウザ表示にも禁則処理は働きますが、行長が環境ごとに変わる以上、どの文字が行末に来るかを作者は制御できません。折り返しが固定されて初めて、禁則は作者の側から観察できる現象になります。
反例も検討しておきます。書籍化の予定がなく、ウェブでしか読まれない作品なら、縦書きの確認は無意味でしょうか。そうとも言えません。折り返しが固定されると、文の長さの偏りが紙面の模様として静止します。長文が続く箇所は升目がぎっしり埋まり、短文と改行が続く箇所は白が増える。スクロールの中では流れ去ってしまう密度の偏りが、四百字一枚という単位で並べて比較できるようになります。表示環境に依存しない基準の紙面を一度持つこと自体に、計測器としての価値があります。
改行の意味も変わります。横書きの投稿画面では、空行を挟んで段落を区切る書き方が広く使われています。読みやすさのための合理的な工夫ですが、原稿用紙に流し込むと、区切りを担うのは冒頭の一字下げと改行そのものになります。画面では快適だった空行の呼吸が、升目の上では間延びして見えることがあります。逆に、原稿用紙で詰まって見える箇所は、画面でも読者が速度を落としている可能性が高い箇所です。どちらの紙面が正しいという話ではなく、二つの表示を往復することで、片方だけでは見えない癖が浮かび上がります。
縦書きに流し込む作業は、清書ではなく計測だと考えています。二十字という定規を当てると、一文の長さの分布、句読点の間隔、台詞と地の文の比率が、枚数と紙面の模様という形で返ってきます。数値の良し悪しを競う話ではありません。自分の文がどんな身体を持っているかを、一度、環境に依存しない物差しで見ておく。その経験は、横書きの画面に戻ったあとの一文の書き方にも残ります。改行を一つ打つ手つきが、少しだけ慎重になるはずです。