昭和の流行歌には、題にこの二字を掲げたものがいくつもあります。列車の名を続けたもの、異国の町の名を続けたもの。題を見ただけで、聴く前から曲の温度が決まってしまう。歌の題は短くなければならないので、情景を説明する余裕がなく、代わりに気分そのものを名指す語が選ばれます。便利な看板です。ただし看板であるということは、中身に触れる前に判定を渡されるということでもある。歌の題では長所になる性質が、小説の地の文では短所として現れます。それでも聴き手が題を疑わないのは、歌の場合、渡された判定が押しつけではなく約束として働くからでしょう。どこで反転するのかを見るために、まずこの語が手を組む動詞から確かめておきます。
この語の後ろに来る動詞を思い出してみると、選択肢がひどく狭いことに気づきます。漂う、帯びる、誘う。あとはせいぜい、ただよわせる。感情を表す語なのに、感じるという動詞と結びつきにくい。哀愁を感じる、と書けなくはないのですが、書いた途端に文が硬くなり、翻訳調に近づきます。同じ系統の語でも、寂しさや切なさは感じるとよく馴染む。この差はどこから来るのか。
まず思いつくのは主語の側の制約です。この語が結びつくのは、たいてい人ではなく物や光景です。後ろ姿、旋律、夕暮れの街並み、古びた駅舎。人が当てられる場合も、その人の内面ではなく外から見えた姿のほうに掛かる。つまりこれは、観察された対象の表面に生じる性質として語られている。当人の胸の内で起きていることを指す語ではない。だから一人称と相性が悪い。自分の後ろ姿は見えないからです。日記の一行に書き込むと、そこだけ語り手が二人いるように読める。書いている当人と、それを離れた場所から眺めている誰かが、同じ文に同居してしまいます。
共起する動詞の顔ぶれを、別の語との比較で見ておきます。帯びるを取る名詞を並べると、怒気、熱、赤み、湿り気——どれも外から観察できる徴です。内面そのものではなく、内面が表面へ出てきたしるしを受け取る動詞だと言える。漂うも似た性格で、匂いや気配のように、発生源から離れて空間に広がるものを主語に選びます。四つ挙げた共起動詞のうち三つまでが、対象の表面か、その周囲を舞台にしている。語のまとう距離は、辞書の語釈を読むより、共起の表を眺めたほうがはっきり出てくるわけです。距離を持たない語と並べれば差はもっと露骨になります。切なさは帯びるとも漂うとも組みにくく、募る、込み上げる、といった内側からの運動のほうを選ぶ。動詞の顔ぶれだけで、視点が外を向いているか内を向いているかが読み取れます。
ここで反例を自分で出しておきます。誘うという動詞があるなら、誘われる側は感情を受け取っているはずで、それは内面の出来事ではないか。たしかにそうなのですが、よく見ると、誘われるという言い方をした時点で、話者は自分の感情を外から観察する構えに入っています。感情に襲われたのではなく、対象の性質が自分に働きかけた、という形式。責任の所在が対象の側にある。この語が持ち込む距離は、対象との距離ではなく、話者と自分の感情との距離なのかもしれません。
語用論の側から見ると、もう一つ厄介な点が出てきます。この語を地の文に置くことは、読者に対して評価を提示する行為です。ここには情感がある、と書き手が判定を下している。指示に近い。読者は自分で感じ取る前に結論を渡されるので、素直に受け取るか、押し付けと感じるかの二択に追い込まれる。しかも現代語では、この語に軽い揶揄が混ざりうる。哀愁漂う後ろ姿という言い方が中年男性や閉店間際の商店街に向けられるとき、悲哀そのものより、悲哀を演じているように見える状態を指している。真剣さと茶化しが同じ語形に同居していて、文脈が弱ければ必ず軽いほうに転びます。読者は解釈のコストが低い側を選ぶからです。
帰結は、置き場所の限定として現れます。視点人物の内面描写にこの語を置くと、その人物が自分に酔っている印象が出る。効くのは、語り手が人物を外から捉えている瞬間か、人物自身が自分を鏡や窓ガラス越しに見た瞬間です。物理的に視線が外へ回った場面。そして揶揄に転ぶのを防ぎたければ、判定より先に具体を置くこと。何が漂っているのかを一つでも書いておけば——鳴りやまない換気扇の音でも、洗い替えの利かない制服でもいい——語は演技を始めずに済みます。