声に出して拍を数えてみます。ア、ン、テ、イ。四拍で、二拍目が撥音です。音の流れがそこで一度閉じ、次の拍でまた開く。開いて、閉じて、開いて、伸びる。この形が、頭に「安」を置く漢語群に共通しています。あんしん、あんぜん、あんたい、あんい、あんど。どれも二拍目でいったん止まる。偶然といえば偶然で、同じ音読みを持つ字を頭にすれば当たり前の帰結ですが、耳に残る型ではあります。しかも最後が長い母音や二重母音で終わる語が多く、閉じたあとに余韻が残る。
撥音は、それ自体では調音の場所を持ちません。次に来る子音に引き寄せられて、口のどこで息を止めるかが決まります。アンテイでは、続くタ行の子音に合わせて舌先が前へ寄り、そこで一度せき止められる。アンシン、アンゼン、アンタイも前寄りで閉じる点は変わらず、頭に安を置くこの語群は、後続の子音がサ行・ザ行・タ行に偏っているぶん、閉じ方までよく似ています。唇を合わせて止める型——アンピのような語——は、この群では少数派です。同じ仮名を書いていても、閉じる位置が揃っていれば、耳は同じ型として受け取ります。仮名では一字にしか見えないものが、口の中では語ごとに別の場所で起きている。表記が均してしまっていることを、発音のほうは均していません。
反対側を見てみます。ゆらぐ、ぐらつく、ふらつく、よろめく。不安定を表す和語には濁音が多く、しかも語幹が反復に馴染みます。ぐらぐら、ふらふら、よろよろ、ぐずぐず。畳語は反復運動そのものを写す形式ですから、揺れとの相性がよいのは当然かもしれません。逆に、落ち着いた状態を表す擬態語は反復を嫌います。どっしり、がっしり、ぴたりと止まる、しんと静まる——促音や撥音で終わりを作り、二度は繰り返さない。繰り返した瞬間に、止まっているはずのものが動き出してしまう。
ここで慎重になったほうがよさそうです。音が意味を作っているように話を運ぶと、後付けの説明に滑ります。この語の意味を担っているのは漢字であって、拍の並びではない。日本語の濁音が大きさや重さの印象と結びつきやすいという指摘は広くありますが、それは傾向であって規則ではありません。反例はいくらでも見つかります。どっしりは濁音を含みながら安定側にいる。音象徴に寄りかかりすぎると、こうした例を数えないまま話が閉じてしまう。
それでも一つ残ります。音が意味を作るのではなく、意味に合わない音の語が使われにくいという選択の圧力があるのではないか。書き手は毎回、無数の同義表現から一つを選んでいて、その選択には耳が関与している。長い時間をかけて、揺れの語彙には濁音と反復が集まり、静止の語彙には閉じる音が集まった。原因ではなく、堆積です。否定形にしてみるとこの堆積がよく見えます。ふ、あ、ん、て、い。五拍に伸び、頭に唇をすぼめる摩擦音が一つ増える。撥音の閉じは相変わらず一つきりなのに、そこへ届く前からもう息が滞っている。字面より先に、音のほうが落ち着かない。
派生形も数えておきます。あ、ん、て、い、か、ん。感を足すと六拍になり、撥音が二つに増えます。二拍目で一度閉じ、六拍目でもう一度閉じて、そこで語が終わる。撥音で終わる語は、母音で開いて終わる語より余韻が短く、文末での着地がわずかに硬い。動詞にした形は、あ、ん、て、い、す、る。同じ六拍でありながら、末尾が母音で開くぶん、次の文へ流れていきます。同じ語幹から出た三つの形が、閉じ方の違いだけで別々の終わり方を持っている。どれを選ぶかは、意味ではなく、文をそこで止めたいかどうかの判断になります。感を付けた形がやや事務的に響き、動詞にした形がまだ続きを予感させるのは、意味の差というより、この終わり方の差から来ているように思います。
実務に落とすと、これは文末の設計の話になります。四拍のこの語を文末に置くと、撥音の閉じが句点の手前にもう一つ小さな区切りを作り、文が重く終わる。同じ意味でも「落ち着いていた」は七拍で、途中に閉じがなく、するりと流れて終わります。揺れや動揺を長く書いたあと、最後の一文でこの語に切り替えると、内容の転換より先に音のほうが止まる。読者は意味を理解する前に、止まったことだけを受け取る。その半拍のずれが、収束の感じを作っているのだと思います。逆に、まだ揺れを続けたい場面でこの語を出すと、音が先に着地してしまい、あとの文がついてこない。