指先が触れた瞬間に、相手の体温がわかる。皮膚は絶対的な温度よりも温度差に敏感で、他人の手を暖かいと感じているとき、実際に測られているのは相手ではなく二人の差のほうです。しかもこの検出は、意識より先に済んでいます。手を引くかどうかを決める前に、もう答えは出ている。ここから先が言葉の話になります。これほど身体に近い感覚が、なぜ好意や善意といった、温度をまったく持たないものを語る材料に転用されるのか。
認知言語学では、抽象的な領域を身体で経験できる領域の言葉によって語る仕組みを概念メタファーと呼びます。重要なのは、この写像に向きがあることです。温度で愛情を語ることはできても、愛情で温度を語ることはできない。「暖かい人」は通じますが、「愛情のある部屋」と言っても室温の話にはなりません。写像は具体から抽象への一方向にしか流れない。身体で先に経験されたもののほうが言葉の材料になる、という順序が守られています。人に抱かれた乳児が最初に受け取る他者の情報のひとつが体温である、という説明がしばしば持ち出されるのも、この順序を裏づけるためです。
面白いのはスケールの分け方です。温度の語彙は、熱い・暖かい・ぬるい・冷たいと並びますが、評価の側へ写ると値の並びが崩れます。上端の「熱い」は情熱を指す一方で制御の効かなさを含み、手放しの褒め言葉ではない。下端の「冷たい」は明確に否定的。そして中間にある「ぬるい」も否定的です。四つのうち肯定に安定しているのは一つだけで、しかもそれは中庸の位置にある。明るさや高さのメタファーでは上端がそのまま最良の値になることが多いのに、温度だけは中間が最良になる——快適な体温の幅がきわめて狭いという身体の事実が、そのまま評価の形に写っているように見えます。
写像の出発点をもう少し細かく見ると、同じ温度でも経路が二つに分かれていることが分かります。この語が引き受けているのは空気や陽射しのように身体を取り囲む温度で、手に持てる物の温度のほうは別の表記が担う。この分業は抽象の側にもきれいに引き継がれています。家庭、まなざし、雰囲気——包み込む対象には前者が付き、言葉、料理、拍手といった、差し出されて受け取られるものには後者が付く。触れて伝わる熱と、いつのまにか身体を満たしている熱は、日本語の中で最後まで別の系統として扱われているわけです。抽象化されても身体的な経路の違いが残るというのは、概念メタファーが単なる連想ではないことの手がかりになります。
ただし写像が古いぶん、この語はよく摩耗しています。人柄を述べるときに使っても、もはや温度は呼び起こされず、好意の一般名詞として通り過ぎていく。摩耗した比喩を生き返らせる方法のひとつは、写像の出発点、つまり本物の温度に戻すことです。人柄を名指す代わりに、湯呑みを両手で包んで渡す動作を書く。渡された側が、湯呑みよりも相手の手のほうが熱かったと気づく。そこまで書けば、比喩は一語も使われないまま成立します。読者の側で写像が起きるからです。抽象語で名指すか、身体の側に材料を置いて読者に写像させるか。この二つを選べるようになると、この語を使わずに済む場面がかなり増えます。