英語に置き換えようとした瞬間に、この動詞は手の中で割れます。木片なら float か drift、匂いなら waft、霧や沈黙なら hang、余韻なら linger、羽根や猛禽なら hover。日本語では同じ一語で済んでいたものが、主語を替えるだけで別の動詞に振り分けられる。訳し分けの対応表を作ってみると、分け目がどこに引かれているのかが、かえって見えにくくなりました。主語の物質的な性質で分かれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
しばらく眺めて気づくのは、英語側の分岐が「何が支えているか」に対応しているらしいことです。float は浮力、drift は流れに運ばれること、waft は空気の移動、hang は動かずに留まること、hover は自力で位置を保つこと。支えの正体を動詞が言い分けている。日本語のほうはそこを言いません。支えがないままそこにある、という一点だけを取り出して、媒質も駆動力も文の外に置いておく。粗いのではなく、抽象の切り取り方が違う。支えを問わないことが、この語の情報の中身になっている。
漢字の側にも分業があります。中国語では、水に浮かんで流されることを言う「漂」と、風に舞い上がることを言う「飄」とが、別の字として立っている。日本語はこのうち「漂」の一字を借りて、和語の「ただよう」に当てました。ところが和語のほうは、水の上のものにも、空気中のにおいにも、部屋に残った気配にも、同じように掛かります。字は水を指しているのに、訓のほうは媒質を選ばない。漂流、漂着といった漢語は水の側に留まり、飄然、飄々といった漢語は風の側に留まる——語幹を共有していないので、両系列は日本語の中でも交わりません。訓読みの一語だけが、二つの漢語系列の担当範囲をまたいで置かれている。この不一致は、表記の上ではまったく見えないところにあります。
ただ、粗さの話にしてしまうのは早すぎます。逆向きに見れば、英語の drift は意味変化にも使われ、議論が本題から逸れることや、人が目的を失って生きることまで担います。日本語のこの動詞は、そこまでは伸びない。会話が漂う、とは言いにくいし、人生が漂う、も座りが悪い。どちらの言語も、ある方向には細かく、別の方向には粗い。分節の粗密は言語の優劣ではなく、どこに関節を置いたかの違いです。
関節の位置は文法にも現れます。この語は自動詞で、目的語を取りません。取れるのは場所を示す成分だけで、しかもそれさえ省かれることが多い。不穏な空気が漂っている、と書くとき、どこにと問われれば答えられるはずなのに、書かれない。媒質を書かないことで、状態が特定の座標に固定されず、場面全体へ薄く広がります。訳しにくさの正体は語彙の対応ではなく、この省略が許されているかどうかにある。英語で hang を選べば in the room のような場所句をたいてい要求され、要求された瞬間に、広がりは部屋の輪郭に切り取られてしまう。
時間の側にも、訳を止める場所があります。「〜ている」という形は、日本語では二通りに読めます。いま動いている最中だという読みと、動きが終わったあとの状態が続いているという読みです。水面の木の葉についてなら、どちらにも取れる。空気や気配にかかる場合は、後者だけが残ります。英語の進行形にこの幅はなく、be drifting と書けば動作の進行のほうに固定されてしまう。訳者は文脈から一方を選び、原文が抱えていた両義をそこで畳むことになる。逆向きに訳すときは、同じ両義が便利に働きます。状態を述べた英語の一文を、動きとも状態とも取れる形へ置き換えられるからです。この動詞が場面の書き出しに好んで使われるのは、時間の指定を先送りできるからでもあるでしょう。最初の一行で、そこに動きがあるのかないのかを決めずに済む。
移動を表す動詞について、様態を動詞そのものに抱え込む言語と、経路のほうを動詞に置く言語がある、という類型の議論があります。細部には異論もありますが、少なくともこの語に関しては、日本語側が様態の記述をオノマトペや副詞に外注しているのは確かでしょう。ふわりと、ゆらゆらと、ゆっくりと。添えてはじめて動きの質が決まります。裏返せば、副詞を添えない裸のこの動詞は、動きの描写ではなく状態の描写になる。文中でどちらとして働くかは、書き手が媒質と副詞を書くかどうかで、ほぼ決まってしまいます。何も添えずに置かれた一語は、動いていることさえ主張していません。