全文検索の索引を組んでいて、「赤」を含む文を集めたら「赤ん坊が泣いた」が混ざってきたことがあります。文字の並びとしては確かに含まれている。索引の作り方が間違っているわけでもありません。文字列を一定の長さで機械的に切って登録する方式なら、語の切れ目を無視して部分一致を拾うのが正しい振る舞いです。形態素解析を通せば混入は減りますが、今度は解析器の切り方に検索結果が従属することになる。色を探していたのに色でないものが返ってくる——この失敗の形が、この語の構造を思いのほかよく映していました。
画面上の色は三つの整数で表せます。各成分が八ビットなら、表現できる組み合わせは千六百万を超える。それに対して、色を指す形容詞は数えるほどしかありません。この落差を圧縮として眺めると、圧縮率は極端で、しかも不可逆です。ある色を「赤い」と書いた時点で、もとの三つ組は二度と復元できない。ただし捨てられているのは数値だけではないはずです。残っているのは、その色がどの範疇に入るかという判断のほうで、これは測定値から自動的には出てきません。どこから橙になり、どこから桃色になるかという境界の位置を決めているのは、波長ではなく言語の側です。
日本語の古い層では、色を指す基本語がアカ・クロ・シロ・アオの四つで、それぞれ明・暗・顕・漠に対応していたという説がよく知られています。断定はできませんが、この見方に立つと、この語がもともと担っていたのは色相ではなく明るさだったことになる。そうだとすれば、真っ赤な嘘、赤の他人、赤裸々といった、色と関係のない用法が説明しやすくなります。まったくの、まぎれもない、という強調の意味。色の名が強調の働きをするのは奇妙に見えて、明るくはっきりしているという古い層の残りだと考えれば無理がない。
そう考えると、最初の検索の失敗はもう少し込み入って見えてきます。赤ん坊の混入は文字列の事故ですが、赤字や赤の他人は事故ではない。同じ語が、色の意味でも強調の意味でも正しく使われている。索引の側からは区別がつかず、意味の側では明確に別のものです。語義の曖昧性解消と呼ばれる仕事がここにあり、機械は周囲にどんな語が現れるかという統計から判定するしかない。人間の読者が一瞬で済ませていることに、共起の集計という遠回りが要る。表記の側にも似た問題があります。紅い、朱い、緋のように、近い色を別の字で書き分ける手段が用意されていて、検索の索引はふつうこれらを正規化して同じものとして扱います。そうしないと取りこぼすからです。ところが正規化した瞬間、書き手がわざわざその字を選んだという情報は消える。取りこぼしを減らす操作と、書き手の選択を保存する操作が、正面からぶつかっている。
書く側の実務に引き寄せると、この語を使うことは、読者の中にある辞書へ参照を送ることに近い。辞書式の圧縮方式が、同じ内容を書き直さずに前に出てきた場所を指し示すのと似ています。数値を送っても復元されないが、参照先が共有されていれば復元される。だから色を伝えたいときに効くのは、精度を上げることではなく参照先を指定することです。血の色、熟した柿の色、夕焼けの色。どれも同じ形容詞で括られますが、読者の側で開かれる像はそれぞれ違う。形容詞ひとつでは千六百万分の一の情報しか運べない。運べるのは、読者がすでに持っている像のどれを開くかという指示のほうだ。