ユーシューと発音してみると、四拍のうち二つが長音です。子音の交代はユとシュの二回しかなく、母音はウに寄っている。口の中で起伏がほとんど起きないまま、時間だけが四拍ぶん流れる。この平坦さは、意味とは別の層で読者の体感に触れます。声に出さない黙読でも音韻の情報は処理されると考えられており、文の速度は語の音の作りから逃れられません。歯切れのよい語を並べた段落と、長音の多い語を置いた段落では、同じ字数でも読者の体内時計が違う速さで進みます。
同じ長さの近隣語を並べてみると、その平坦さの位置がはっきりします。憂鬱はゆ・う・う・つで四拍。哀愁はあ・い・しゅ・うで四拍。感傷はか・ん・しょ・うで四拍。拍数はどれも揃っています。揃っていないのは、長音がどこにいくつ入るかです。憂鬱は前半の一箇所だけで、後半は「うつ」と短く閉じる。哀愁と感傷は後半の一箇所だけで、前半は二重母音と撥音が担う。二箇所に長音を抱えている語は、この四拍の集団のなかで一つしかありません。文末に置いたときの振る舞いも、そこで分かれます。促音や短い母音で終わる語は、そこで音が止まり、次の文が近く感じられる。伸びたまま終わる語は、句点を打っても余韻が残り、次の一行までの距離が広がります。意味がほとんど同じ語のあいだで、間の長さだけが違っている。
計量文体論では、文中で情報を担う語の割合を語彙密度と呼び、内容語と機能語の比で近似します。二字漢語は、この比を一語で押し上げる装置です。同じ内容を和語で言い直すと語数が増え、助詞が増え、文が長くなる。「胸の底に澱むような心持ちで」と書けば十三字を要しますが、二字漢語なら二字で済む。ここで起きるのは短縮だけではありません。文の中の助詞の割合が下がると、文の骨格が硬くなり、話し言葉から遠ざかる。漢語密度の高い地の文が硬く感じられるのは、語のイメージのせいだけではなく、この配合比の変化によるところが大きい。
もっとも、節約した分がそのまま残るわけでもありません。この語は名詞ですから、述語にするには「だ」や「である」を連れてくる必要があり、後ろの名詞にかけるには「の」を一つ挟まなければならない。物憂いのような形容詞なら、物憂かった、の一語で文を閉じられます。語彙の層で二字に圧縮した代わりに、文法の層で助動詞と助詞を要求する——短縮は途中まで進んで、そこで一部返済されるわけです。語彙密度を上げる操作と、文を短くする操作は同じではない。原稿を詰めたいときに漢語へ寄せると、字数は減ったのに文の数だけ増えている、ということが実際に起こります。
配置される位置も効きます。文末に置いて言い切れば、そこで拍の流れが止まり、次の文までの間が長くなる。連体修飾の位置に置けば、四拍のあとにさらに名詞が続くので、重い塊が文の中ほどに沈む。同じ語でも、文末に置いた場合は読点なしで受け止められ、中ほどに置いた場合は前後に読点を欲しがる。読点は文長分布を細かく刻む記号ですから、語の位置がひとつ動くだけで、その一文に打たれる読点の数まで変わってしまいます。段落の頭に置いた場合は、効き方がもっと広くなります。最初の一語で決まった歩幅が、その段落の残り全部の基準になるからです。後続の文をどれだけ短く刻んでも、読者はいったん設定された速度からなかなか抜け出しません。
そして頻度です。この種の語は日常会話にほとんど現れません。低頻度語は、現れただけで目立つ——目立つということは、繰り返せば急速に摩耗するということでもあります。語彙を予算として扱う考え方がここで役に立ちます。一話分の地の文で、読者が「珍しい語」として処理できる回数はそう多くない。感覚的には、四千字の一話に二度も三度も同じ低頻度語が出れば、二度目からは書き手の手癖として読まれはじめます。同義の和語表現を挟んで間隔を空ける狙いは、意味の変化よりも頻度の設計にあります。
だから実務としては、書き終えた原稿の数を一度だけ数えてみるのが早い。一話の総字数、句点の数、そこから出る平均文長。次に、二字漢語がどの文に何回入っているかを目で拾う。平均文長が長い段落に重い漢語が集中していたら、読者はその段落で二重に減速させられている。逆に、短い文が続く場面で一語だけ長音の多い漢語を置くと、そこだけ時間が伸びます。意味の上で立ち止まってほしい一行に、音の上でも立ち止まる語を重ねる。語の選択は、辞書の側からだけでなく、拍と文長という測れる側からも決められます。