場内騒然、という見出しを、声に出して言う人はいません。書かれているところは何度も見たのに、話し言葉としては一度も聞いたことがない。台詞の中へ移すと、語尾をどう整えても文章の切れ端が紛れ込んだように響く。人物が言うのではなく、語り手が書く語。書き言葉の側にだけ残った語群があり、この語はその一員です。
同じ形をした仲間を並べてみると、系列が見えます。漠然、呆然、唖然、憮然、慄然、平然、毅然。状態を表す語幹に接尾辞が付いて副詞や形容動詞のようにふるまう形で、漢文とその訓読の伝統を通って日本語に入りました。明治以降の言文一致は、書き言葉を話し言葉に近づける運動でしたが、地の文の語彙がすべて会話へ降りたわけではない。降りずに残った層があり、この形はそこに厚く堆積しています。新聞や論説の文体に多く見られるのも、同じ事情からでしょう。
森鷗外や夏目漱石が漢文の素養を土台に持っていたことは広く知られています。彼らの世代を境に文語から口語への移行が進みましたが、その過程で起きたのは漢語の廃棄ではなく、配置換えでした。会話の位置からは退き、地の文の、それも場面を締めくくる位置に残った。この語もそこに落ち着いています。ざわめきを一つひとつ書いた後で、最後に一語だけ置いて場面を閉じる。描写ではなく、描写に対する評決に近い働きをする。
活用にも欠けがあります。この形の語は、連体修飾のときに「な」を取りません。騒然な会場、とは言えず、騒然とした会場、あるいは文語寄りに騒然たる会場になる。「と」や「たる」で受けるこのふるまいは、口語の形容動詞の型からはみ出しています。はみ出したまま生き延びているのは、これらの語が話し言葉の側で摩耗する機会を持たなかったからでしょう。使われる場所が限られている語は、形も古いまま保存される。語彙の化石という言い方をしたくなりますが、化石は死んでいて、こちらはまだ見出しの中で働いているという違いがあります。
付く先を調べると、性格がもっと絞れます。議場、場内、会場、世間。人には付きにくい。彼は騒然としていた、はほとんど成立しません。個人の内面には届かず、集まりにしか掛からない語で、しかもその集まりを外から一望している者にしか使えない。逆に言えば、この語を書いた時点で、語り手が群衆から離れて高いところに立ったことが読者に伝わってしまう。ここで少し引っかかりました。一人称の語りの中でこの語が出てきたとき、それは語り手の教養を示すのか、それとも視点の破れなのか。おそらく両方が起こりうるので、判断は場面ごとに分かれます。
現代の小説でこの語を使う機会は多くありません。ただ、群衆の反応を人物ごとに拾っていくと数百字かかる場面が、一語で処理できることは事実です。問題は、処理してよい場面かどうか。主人公がその混乱の中で溺れているなら、上から見た語は使えない。主人公が扉の外にいて、中の騒ぎを人ごとに区別できないなら、一語で締めた方が正確になる。使いどころは語の格調より、人物がその場のどこに立っているかで決まります。