「彼は三か国語を操る。そればかりか、挨拶程度の英語もできる。」——どこかおかしい。文法の誤りはないのに、読んだ瞬間につまずきます。原因は順序です。この語は、あとに来る事柄が前の事柄を上回っていることを要求します。三か国語の下に挨拶程度を置いた瞬間、階段を上るはずの足が踏み外されます。前後を入れ替えれば文は即座に治ります。意味論上の制約は、文法書より先に読み手の体が検知するものです。
分解すると仕組みが見えてきます。「ばかり」は限定のとりたて助詞で、「それだけ、それ以外にない」と枠を引く働きを持ちます。「か」は疑問の形を借りた反語で、引いたばかりの枠を「その枠で足りるだろうか、いや足りない」と突き崩します。限定と、限定の否定。この二段構えのために、後続の位置には「枠の外にあるもの」、それも枠の上限を越える側のものしか置けません。枠を下回るものは枠の内側に収まってしまうので、越えたことにならないのです。
同じ内容は「それだけではなく」でも言えます。置き換えてみると、この語が余分に何を持っているかが見えてきます。三か国語を操り、それだけではなく詩も書く。情報の量は変わりません。落ちるのは勢いのほうです。「ではない」は限定を平叙文で打ち消しますが、「か」は疑問の形を借りて打ち消す。反語は聞き手に一瞬だけ答えを探させ、その空白が加速になります。真理条件だけを見れば両者は同値でも、発話としての速度は違う。丁寧に言い換えるほど階段の勾配は緩み、段差の感触が薄れていきます。硬い論説文がこの語を避けて別の形を選ぶのは、勾配を読者に感じさせたくないからでもあるでしょう。
ここで言う「上回り」は、事実の大小ではなく評価の尺度上の大小です。「遅刻が増えた。そればかりか、無断欠勤までするようになった」は悪さの尺度を上っています。「歌がうまい。そればかりか、曲も書く」は感心の尺度を上っています。上る方向はどちらでもよいのですが、前件と後件が同じ尺度に乗っていることが条件で、「遅刻が増えた。そればかりか、歌がうまい」は尺度がつながらず宙に浮きます。接続の語と呼ばれるものの少なくない部分は、実はこうした尺度の管理者として働いています。
この語が「まで」や「さえ」と相性がいいのも、同じ理屈で説明できます。先の例の「無断欠勤まで」の「まで」は、その事例が尺度の端に近いことを示すとりたて助詞です。階段を上らせる語のあとに、頂上の目印を打つ語が来る——役割が連続しているので、共起しても重複にはなりません。むしろ後続の文に「まで」も「さえ」もないと、上ったはずの段差が読み手にうまく伝わらないことがあります。とりたて助詞は一語ずつ暗記するより、尺度の上のどの位置を指す語かという地図で覚えるほうが、実際の文の中で組み合わせが利くのです。
似た顔をして働きの違う語も、一族の中にいます。「それどころか」は、前件の見込みを否定して反対側へ跳ぶ語です。「寒くない。それどころか暑い」では、尺度を上るのではなく、想定されていた端からもう一方の端へ移っている。だから前件をそのままの形では残せません。「しかも」は要求がゆるく、上回りを求めずに一段を足すだけで済みます。「おまけに」には評価の傾きが混じり、望ましくない側へ寄りやすい。四つを並べてみると、追加という一つの機能が、尺度を要求するかどうか、どちらの方向へ動くかによって細かく分業されているのが分かります。接続の語彙が多いのは無駄に多いのではなく、この分業が細かいからです。文の中に直に付く「ばかりか」の形も同じ制約を引き継ぎます。「雨ばかりか風まで出てきた」の並びを逆にすれば、やはり足が段差を踏み外す。文頭に立つか節へ付くかという形の違いは、尺度の管理という仕事の中身までは変えません。
創作の場面では、この語は積み上げの予告として機能します。読者はこの一語を見た瞬間、いま読んだ内容より重いものが来ると身構えます。だからこそ、後続が予告倒れになる冒頭のような例は強い違和感を残すのです。逆に、その違和感を承知の上で、あえて拍子抜けするものを置いて滑稽味を出す手もあります。ただしそれは、階段の設計図を知った上での意図的な違反であって、知らずに段差を壊すのとは読後の印象がまるで違います。連載小説のように話数をまたいで事態を重くしていく形式では、持ち上げの継ぎ目にこの語を置くことで、読者の中の尺度が一段更新されたことを、説明抜きで合図できます。