ヤカマシイ。声に出すと、ア段の音が三つ並んでから、最後にイ段へ落ちます。や・か・ま・し・い。五拍。母音を書き出すと a-a-a-i-i で、前半はずっと口が開きっぱなしになる。この並びを、近い意味の語と比べてみたくなりました。うるさい、は u-u-a-i の四拍。さわがしい、は五拍で a-a-a-i-i と母音列が同じ。けたたましい、は六拍で、途中に t が二回続く。
子音の側も見ておきます。やかましい、に含まれる破裂音は k のひとつだけで、あとは y・m・sh という、息の抜ける音です。けたたましい、は k と t と t、破裂音が三つ、しかも同じ子音の連打がある。連打が打鐘や叫声の切れ切れの印象につながっているのだろう、という見当は立ちます。さわがしい、には濁音の「が」がある。日本語のオノマトペでは、清音と濁音の対が大きさや粗さの差に対応する傾向が指摘されてきました。さらさら/ざらざら、かたかた/がたがた。この傾向に素直に従うなら、濁音を持つ「さわがしい」のほうが重く粗く響くはずです。
ところが実感は逆でした。少なくとも叱責の場面では、濁音のないほうが強い。ここで音象徴だけで押し切ろうとしていた自分の説明が止まります。音の形は印象に寄与するが、寄与するだけで、決めてはいない。
止まったところで別の角度から見ると、差は音より使われ方にありました。やかましい、は単独で一喝になる。語尾も助詞も付けずに投げつけて、命令として成立する。うるさい、も同じことができる。さわがしい、はできません。「さわがしい!」と怒鳴る場面を想像すると、どうしても間が抜ける。これは音韻の問題ではなく、その語が長く担ってきた役割の問題です。
とはいえ、音がまったく無関係というわけでもなさそうです。一喝に使える語を並べると、共通点が見えてきます。短いこと。母音が開いていること。末尾が母音イで、息を止めずに切れること。呼びかけや制止に使われる語は、遠くまで届き、途中で失速しない音形を持っている——「危ない」も「待て」も、そこは共通しています。役割が音形を選び、選ばれた音形が役割をさらに強めた、という順序なら筋が通ります。音が意味を作ったというより、用法が音を選り分けたのです。
五拍という長さも、日本語の文のなかでは扱いやすい単位です。定型詩の五音にそのまま収まり、助詞や終助詞を一つ足せば六拍になって句の途中でも据わりがいい。地の文に置いたときに文のリズムを乱しにくいのは、この寸法のおかげだと思います。
そこまで見てから創作の話に戻ると、注意すべき点がひとつ残りました。この語は音量の記述ではなく、評価だということです。擬音語は音そのものを写しますが、形容詞は「その音を不快と判断した誰か」を連れてきます。地の文に置けば、視点人物が耐えていることまで同時に書いたことになる。同じ祭りの音を、浮かれている人物の視点では別の語で書かねばなりません。音を写したいのか、音に対する態度を写したいのか——その区別が付いていれば、五拍の強さは狙って使えます。