静かにしなさい、と言われた子どもが、次の一秒で何をすればいいのか分からずに固まることがあります。伝えられたのは、やめることだけです。何を始めればよいかは、どこにも書かれていない。禁止は空白を作りますが、空白の埋め方までは指定しません。言われた側は、黙って立っているか、声をひそめて同じ遊びを続けるか、別の遊びを探すか、自分で決めるほかありません。叱った側が思い描いていた状態は、そのうちのどれか一つだったはずですが、それは伝わっていない。打ち消しの文にも同じ性質があります。削られた領域の代わりに何が置かれるかは、読んだ側の裁量に委ねられていて、書き手はそこを統制できません。
騒がしくない、と書いても、その部屋が静かだとは限りません。ここには何もないという断定ではなく、ある目盛りから上ではない、という程度の情報しか残らない。段階を持つ形容詞に否定を掛けると、反対側の端まで一気に飛ぶのではなく、目盛りの中ほどを含んだ広い帯が残ります。論理学の用語で言えば、これは両方が同時に真にはならないが、両方が偽であることはありうる対立で、真ん中がある。だから打ち消しだけでは、静けさという状態を文の中に置くことができない。
もう一歩踏み込むと、隣の語との差も見えてきます。うるさい、と書いた瞬間、話者が迷惑を被っているという含みが入る。試しに、祭りの通りは騒がしかったが不快ではなかった、と書いてみると自然に読めます。うるさかったが不快ではなかった、はどこか座りが悪い。ここで引っかかりました。うるさいけど嫌いじゃない、なら言える。取り消せてしまうのなら、それは語の意味に固く含まれた条件ではなく、文脈が運んでくる含みの方だということになります。打ち消せるかどうかで両者を分けるという手続きは、この種の判別によく使われる。
帯の広さは、打ち消しを二重にするとかえってはっきりします。騒がしくなくもない、と書けば、目盛りの中ほどのどこかだと分かる。二つの否定は互いを消し合って元へ戻るのではなく、両端を削って中央だけを残します。記号の上では二重否定は肯定に戻るのに、文章ではそうならない。緩叙と呼ばれるこの言い方で、書き手は断定を避けながら、実際には肯定より狭い範囲を指しています。程度副詞を足しても帯は動きます。あまり、を挟めば上限のすぐ下だけが削られて中の下あたりに落ち、決して、を挟めば帯そのものが下端へ押しつけられる。同じ打ち消しの形が、副詞一語で別の範囲を指すことになります。副助詞も効きます。騒がしくはない、と「は」を入れれば、何かと比べての話だという含みが立ち上がり、比較の相手が文の外に呼び出される。読者はその相手を探し始めるので、一文のうちに、書かれていない場所が生まれます——削った跡ではなく、参照先の空席のほうです。
打ち消しても消えない層もあります。その部屋は、もう騒がしくなかった。この一文は、静けさを伝えると同時に、以前はそうでなかったという情報を無言で置いていく。否定の外側に立っているので、打ち消しをくぐり抜けてしまう。書かれていないのに読まれる情報がここにあり、しかも読者はそれを推測だと感じない。過去の描写を一行も費やさずに、場面の前史を差し込む方法として、これはかなり効率がいい。ただし濫用すると、読者は説明されないまま情報だけを蓄積させられて、疲れます。
否定がどこまで掛かるかという問題も残っています。彼は騒がしい店が好きではない、と書いたとき、好かれていないのは店なのか、騒がしさなのか。書き手の頭の中では片方に決まっているのに、文の上では両方が生きている。打ち消しの届く範囲が定まっていないためで、これは曖昧というより、範囲が明示されないまま放置されている状態です。人物の性格を一文で示そうとするときほど、この種の取りこぼしが起きやすい。
結局のところ、打ち消しは領域を削るだけで、何も置かない。静けさを書きたければ、削るのではなく置くしかない。冷蔵庫の低い唸り、遠くの車、椅子が軋む音。静けさは音がないことではなく、小さな音が聞こえるようになることなので、消去法では届かない。逆に、削ることそのものが効く場面もある。何かが終わった直後の部屋を書くときには、あった音が引いたという事実の方が、いま何が聞こえるかより重い。使い分けの基準は、その場面が失われたものの話なのか、いま残っているものの話なのか、という一点にあります。