相談を受ける場で、「漠然とした不安があるんです」という言い方をされることがあります。この一言は、受け取る側にとって扱いに困る種類の情報です。不安があるという事実は伝わる。しかし、何についての不安かは伝わらない。伝わらないということが伝わる、という奇妙な構造をしています。聞き手はここから二方向に進めます。内容を聞き出しにいくか、内容がないこと自体を受け止めるか。どちらを選ぶかで、その後の会話は別のものになる。そして選択の手がかりは、この四文字そのものの中にはありません。
文法上の位置を先に確かめておくと、この語はほとんど副詞か連体修飾の形でしか現れません。漠然と思う、漠然とした不安、漠然とした期待。単独で述語に立つ用例は稀です。副詞として何を修飾しているのかを考えると、修飾先は動作そのものではないことに気づきます。「漠然と歩く」は据わりが悪く、「漠然と考える」は自然に通る。歩行には解像度がないが、思考にはある。つまり修飾されているのは、行為の様子ではなく、対象を捉える解像度のほうです。命題の中身ではなく、命題への向き合い方に注釈を付けている。
語用論の用語で言えば、これはヘッジの一種です。これから述べることは正確ではありません、という予告を先に置くことで、後続の記述が精確でないことの責任をあらかじめ軽くする。ただ、ここで引っかかります。単なるヘッジなら「たぶん」「なんとなく」でも代わりが利くはずですが、置き換えてみると印象が明らかに変わる。「なんとなく不安だ」は軽く、「漠然とした不安」は重い。同じヘッジで、同じく輪郭のなさを申告しているのに、重さが違う。うまく言えないのですが、この語には、輪郭がないという状態それ自体を、一個の対象として差し出す働きがあるように見えます。ぼかすのとは違い、ぼやけているものを指さしています。
字面に戻ると、その出どころが少し見えてきます。「漠」は砂漠の漠で、広くて何もないさまを表す字です。字義に忠実に読むなら、これは対象の側の性質を述べる語のはずです。ところが実際の用法では、対象ではなく把握の側を述べている。不安そのものが砂漠のように広いのではなく、不安を見ようとする視線が端まで届かない。字義は外を指し、用法は内を指す——この転位が、軽いヘッジとの重さの差を生んでいるのではないかと思います。話し手は自分の内側の見えなさを、外の広さの語彙で言っている。だから聞き手には、話し手が何も持っていないのか、大きすぎて掴めないものを持っているのか、判別できない。判別できないことこそが、この語の情報量です。
書く側にとっての帰結は、わりにはっきりしています。人物に「漠然とした不安」を抱かせるのは、その人物が言語化を諦めた瞬間を書くことにほかなりません。ところが読者の側から見ると、それが人物の諦めなのか、書き手の諦めなのかは区別がつかない。区別をつけたければ、その人物が言語化を試みて失敗する過程を、どこかで一度だけ見せておく必要があります。試みた痕跡のない「漠然」は、場面を作らずに済ませた印として読まれてしまう。同じ四文字が、直前の数行の有無によって、意味を持ったり持たなかったりする。効いているのは、語の選択よりも、その手前の労力です。