音を表す語が一ページに何個あるかを数えてみたことがあります。数のわりに、読んだときの印象は静かでした。数えられたのは音を指す語であって、音そのものではないのだから当然と言えば当然なのですが、ページ上の密度と読後の耳の記憶が一致しないという事実だけは残った。とくに漢語の名詞は、四拍で閉じて、それ以上ふくらまない。指しているものが激しくても、語形は静止しています。
長さの方から見ると、事情がもう少しはっきりします。騒音がひどい、は十拍にも満たない。あちこちで人が怒鳴り、金物が落ち、犬が吠えている、は三倍ほどの長さになる。情報としてはどちらも似た状況を伝えますが、読者がその場に滞在する時間が違う。文の長さは読む時間であり、読む時間はそのまま、その場に留めさせた時間になります。漢語名詞は状況をひとつの塊に圧縮し、内容語の密度を上げる代わりに、滞在時間を削る。長く留めたいのか、素早く通過させたいのかで、選ぶべき側が決まります。
では騒がしさを書くには短い文を連ねればいい、という話になりそうですが、ここで引っかかります。短文の連続は緊張や切迫にも使われる型で、内容が伴わなければ騒がしさには読まれない。同じ形が別の効果を持ってしまう以上、長さの分布だけでは足りず、どの語をそこに置くかが要る。計量の視点が教えてくれるのは、文が全体としてどんな形をしているかであって、一文がその場で何をするかではない。分布の話と一文の話は、別の階層にあります。
逆の作り方もあります。読点で要素を継ぎ足していった長い一文が、かえって騒がしく読めることがある。屋台の呼び声があり、スピーカーがあり、子どもの泣き声があり、そのどれも終わらないまま次が重なる、という形で書くと、読者は息継ぎの位置を失う。落ち着いて処理できないという状態そのものが、騒がしさの経験に近い。つまり短さが騒がしさを作っているのではなく、処理の負荷が作っている。長さはその負荷を動かすつまみのひとつであって、唯一のつまみではありません。文の数を数えるより、一文あたりに詰め込んだ要素の数を数えた方が、実感に近い指標になることもあります。
もうひとつ、この語には位置の問題があります。制度の中で測定され、規制の対象になる音を指す語なので、使った瞬間に語り手は音の外側へ移る。屋台の内側で汗をかいている人物は、周囲の音をそう呼ばない。呼ぶのは、窓を閉めて苦情を書こうとしている人物か、場面を上から要約している語り手です。語彙がひとつ視点の高度を決めてしまう。同じ音を、内側からは響きや喧騒として、外側からは測られる量として書き分けられるということでもあります。
数えることで最終的に見えたのは、語ごとの効果ではなく自分の癖の方でした。似た長さの文が何行続いているか、圧縮された名詞をどれくらいの間隔で置いているか。長さの単調さは、内容の単調さより先に読者へ届きます。三十字前後の文が十行続いたページは、何を書いていても平坦に読める。音の場面を書いているのに読み返して静かに感じるなら、疑うべきは語彙の量ではなく、文の長さがずっと同じところに張りついていないか、という点です。数値そのものに意味はありません。意味があるのは、自分では変化をつけたつもりでいた場所が、数えてみると変化していなかったと分かることの方です。