二つの審査基準があるとします。一方は身長と視力を問い、他方は身長と視力に加えて聴力も問う。後者のほうが厳しい。理由は単純で、通過する人の集合が小さくなるからです。条件を足せば、それを満たす対象は減る——論理の言葉でいえば、条件Bが条件Aを含意するとき、Bを満たすものの集まりはAを満たすものの集まりに含まれる。この包含関係が、強さの比較の正体です。量の多寡ではなく、集合の入れ子。だから「もっと厳しく」という要求は、たいてい条件の追加か閾値の移動として実装できます。
面白いのは、含意の向きと、要求の重さの向きが逆を向くことです。強い条件ほど、それが真になる場面は少ない。「二十歳以上」より「三十歳以上」のほうが重く、しかし後者は前者を含意する。含意する側が、通す側としては小さい。この逆転はしばしば直感に反します。重い規則は「大きい」と感じられるのに、それが切り出す領域は小さい。強さと広さが反比例するのは、論理の側では当たり前でも、日常の語感では捻れて見える。捻れているというより、感覚が測っているのは集合の大きさではなく、要求を満たすまでの距離のほうなのでしょう。
規則の側から眺めると、この程度は例外の数でも測れます。「遅刻は認めない」に「ただし公共交通機関の遅延を除く」という但し書きを一つ足すと、規則が覆う範囲はそのぶん縮む。全員に及ぶはずの禁止に穴が開くわけで、例外条項は条件の追加とちょうど逆向きに働きます。条件を足せば通過する集合は小さくなり、例外を足せば大きくなる。基準を上げたい人は前者を、下げたい人は後者を触ります。実際の運用でもめるのはたいてい後者のほうで、本則を変えずに但し書きだけを増やしていくと、文面の強さを保ったまま実質だけが緩んでいく。文面と実質が離れていく現象は、この二つの操作が別々に効くところから来ています。逆に、例外をすべて削った規則は、条件をひとつも足していないのに以前より通りにくくなる。何も加えずに強くできてしまうのは、この語が結局のところ、残された集合の大きさだけを測っているからです。
この形容詞には、表に出ない席が二つあります。誰にとってか、何についてか。「あの先生は厳しい」という文は、対象と観点を黙って前提にしている。挨拶には容赦がないが提出期限には寛容、ということは普通に起きるので、観点を欠いた判定は本来なら成立しないはずです。それでも文が成り立つのは、文脈が席を埋めてくれるから。前提には、否定しても消えないという性質があります。「あの先生は厳しくない」と言い換えても、何かの観点で評価されているという枠組みは残る。否定のスコープは述語には届いても、前提までは届かない。
ここで例外に見えるものが出てきます。「厳しい寒さ」。誰も基準を設けていないし、通過も落第もない。集合の話は効いていないように見える。よく見れば、耐えられるかどうかの閾値は隠れています。人が持ちこたえられる範囲があり、その外側に出た、という判定。線を引いたのが人でないだけで、閾値の構造は残っている。ただ、この読み直しには苦しいところもある——表情や声色まで同じ説明でくくると、閾値という語が何にでも当てはまる万能の道具になって、ほとんど何も言っていないことになります。説明の射程は広げすぎないほうがよさそうです。
事故のあとに必ず出てくる要求の形も、同じ構造で読めます。もっと厳しくしていれば防げた。境界を動かせば通過する集合は変わりますが、動かした場合に何が起きたかは観測できません。新たに落とされる側には、防げたはずの事故と、無害だったのに落とされたものとが混ざって入る。前者だけを数えて後者を数えない議論は、規制の効き目を必ず高く見積もります。反実仮想が扱いにくいのは、比較の相手が現実のどこにも存在しないからで、真偽を決める手続きを別に用意しなければならない。この語が論争の場で強い言葉として働くのは、証明の負担を反対側へ押しつけられる形をしているからでもあります。同じ理由で、緩めるほうの提案は常に不利な位置に立ちます。緩和が招いた損害は事後に数えられるのに、緩和が救ったものは誰にも数えられない。
残るのは、この語が単独では意味を確定できないという事実のほうです。物語で誰かを容赦のない人物として書きたいとき、その性質そのものを描写しても像は結びません。要るのは、何を通し何を落とすかの線引きを一つ見せること。遅刻は許すが嘘は許さない。線が一本引かれた瞬間に、人物は判定装置として動き出します。