「吸う」は空気や液体を体内へ取り込む動作を原義とし、漢字は口偏に及を添えた形で、及が音を担う形声とされる。和語としても古くからあり、呼吸だけでなく吸引・吸収へ意味が伸びる。「込む」は内部への進入や密度の高まりを添える要素で、「飲み込む」「飛び込む」と同じく、境界を越えて内へ向かう動きを強調する。二つが結び、さらに受身の「れる」と比喩の「ような」が付くと、す・い・こ・ま・れ・る・よ・う・な の九拍が縦に積み上がる。長さそのものが、この表現の最初の性質だ。九拍の修飾は、置いた場所で文の進みを一度止める。
「ような」は比喩の接続で、字義どおりの吸引が起きていないことを告げる安全装置である。装置があるから、目、闇、音楽、人混みといった非流体にも使える。語源の層を重ねて読むと、この表現は内へ引き込む力があると、実際には物理的吸引ではない、の二層を同時に運ぶ。二層がそろうと、描写は誇張にならず、感覚の近傍にとどまる。近傍にとどまることこそ、比喩が陳腐化しない条件でもある。条件を外して字義どおりの吸引に寄せすぎると、ファンタジーの特殊能力説明に近づく。特殊能力の説明は、感覚の近傍ではなく規則の掲示になる。
受身の「れる」も、見た目ほど単純な部品ではない。この助動詞は受身のほかに、可能・自発・尊敬を担う。四つの用法を一つの形式が兼ねる状態は、古語の「る」「らる」から続いている。ここで効いているのは自発の層のほうだろう。受身と読むなら、吸い込む主体がどこかにいなければならない。ところがこの表現では、その主体が示されない。目に吸い込まれる、と書いたとき、目が吸っているのか、こちらが勝手に落ちていくのかは決まらない。行為者の席が空いたまま、出来事だけが立ち上がる。花の香が思い出される、といった自発の用法と地続きだと考えると、この宙づり感の出どころが説明できる。原因を名指さないことが、そのままこの修飾の効き方になっている。
字面を分解すると、「吸」は口と呼吸の身体性、「込」は空間の深さ、「れ」は受動、「ような」は仮想——四つの部品が、それぞれ別の層から意味を持ち寄っている。呼吸の層が残っているおかげで、類語の魅惑的な、目が離せない、との差もはっきりする。後者は注意の拘束であり、この複合は口と喉の記憶を保ったまま、空間的な飲み込みのイメージを運ぶ。空間のイメージがある分、目や夜の海、階段の闇といった深さを持つ名詞と相性がよい。相性の悪い名詞に付けると、九拍の長さだけが目立つ。長さが目立つ修飾は、引力ではなく装飾として読まれる。
「込む」も、単独では別の顔をしている。道が込む、人が込む。この自動詞の「込む」は密集を表し、内へ入る動きは含まない。ところが複合の後項に回ると、押し込む、放り込む、飛び込むと、方向を添える役に転じる。前項の動詞が運ぶ動作へ、境界を越えて内側へ、という向きだけを足す。原義の密集は、ほとんど残っていない。摩耗して機能語に近づいた後項だと言ってよい。だから、この表現が運ぶ内へという感覚は「吸う」からではなく、摩耗したこの後項から来ている。「吸われるような」と言い換えると引力が弱く感じられるのはそのためだ。す・わ・れ・る・よ・う・な で七拍、二拍短くなるだけでなく、内側という座標が抜け落ちる。
語構成が長いぶん、文中での位置も重い。連体修飾として名詞の直前に置くと、名詞がその引力の受け皿になる。沈黙なら音の欠如が深さになり、眼差しなら視線が井戸になる。連用形にする道もある。吸い込まれるように、と副詞化すれば、受け皿の名詞を立てずに動作へ直接かかる。吸い込まれるように歩き出した、という形では引力の出どころが完全に伏せられ、行為者不在の度合いがさらに上がる。語源的な吸引の記憶を活かすなら、受け皿に奥行きか密度かを一文で補うとよい。補いがなければ、九拍の比喩が空転する。空転した修飾は、ただ長いだけの飾りに見える。飾りに見えた瞬間、読者は引力ではなく修辞を意識し始める。修辞が前景化した描写は、場面の力を弱める。
成り立ちを意識すると、同じ吸引イメージでも飲み込む、引き込む、との使い分けが設計できる。飲み込むは喉から下の消化の層、引き込むは腕の力の層——口と息の気配を残しているのは、この複合だけだ。近さを必要とする場面にだけ、長く重い修飾を置く。重い修飾を毎段落に置くと、場の強さがインフレを起こし、どの場面も同じ渦に見える。同じ渦の連続は、読者の感覚を麻痺させる。