数えてみると八拍あります。あ・め・が・ふ・る・よ・う・に。同じ事態を指す短い擬音なら五拍で済み、漢語を使った言い方でも七拍前後に収まる。比喩の中身がどれだけ的確でも、この八という数字は文に必ず加算されます。意味の話をする前に、まず量の話がある——書いているあいだはこの順序を忘れがちですが、読者の側では先に量が届いています。日本語の述語は文の末尾にあります。したがって、修飾句を述語の直前に置くと、主語から述語までの距離がそのぶん伸びる。八拍というのは、伸ばす量としてはかなり大きい。読者は主語を保持したまま八拍を通過し、それから動詞に到達することになります。保持の負荷は、句が長いほど、また句の内部に別の主語が立っているほど増える。この言い回しは内部にガ格を含むので、負荷の両方の条件を満たしています。
同じ像を運ぶ短い形と並べてみます。あ・め・の・よ・う・に。六拍です。内部に動詞を立てず、名詞ひとつを受けるだけのこの形は、八拍の言い方より二拍短い。減っているのは拍だけではありません。節の中に立っていた主語が消え、読者が保持する項目が一つ減ります。裏返せば、八拍のほうを選ぶ書き手は、二拍と一項目を追加で支払っている。落ちてくるという出来事そのものを文の中に持ち込む必要があるかどうかが、その支払いに見合うかの基準になります。降っている状態だけを言えばよい場面なら、六拍で足ります。八拍が要るのは、降るという動きの継続を読者に一度たどらせたいときです。二拍の差は声に出しても大きくは感じられませんが、一文の中では確実に効きます。
置く位置には自由度があります。文頭、主語の直後、述語の直前。同じ八拍でも、遅らせる対象が変わる。文頭に置けば場面全体の調子を先に決め、述語の直前に置けば、動詞の到着だけを遅らせる。後者は、その動詞が読者にとって重いとき——落ちる、崩れる、届く——に効きます。位置の選択は意味を変えませんが、どこで読者を待たせるかを変える。
長さだけの問題だろうか、と疑ってみます。おそらく違います。八拍という数は、二つに割れる。あめが・ふるように、と切っても、あめがふる・ように、と切っても、まとまりができる。日本語のリズムは二拍単位でまとまりやすいと言われており、四拍や八拍の句が安定して感じられるのはそのためだと考えられています。同じ長さでも奇数拍の句は据わりが悪く、文の中で少し尖る。長さは総量の問題であると同時に、割れ方の問題でもある。
拍のほかに、もう一つ数えられるものがあります。内容語の数です。この八拍の中には、物を指す名詞と、出来事を指す動詞が入っている。合わせて二つ。対する擬音の側は、五拍あっても内容語をひとつも含みません。音そのものが感覚を運ぶだけで、指示する対象を増やさない。同じ一文に足したとき、片方は語彙の密度を上げ、もう片方は上げない。密度が上がれば、読者が処理する項目が増え、読む速度は落ちます。感覚的な言い方をすれば、擬音は文を走らせ、比喩は文を歩かせる。長さと密度は別の指標であって、どちらも独立に測れる。
比率という測り方も残っています。四十字ほどの文に八拍の句を入れれば、句が占めるのは全体の二割前後にとどまり、比喩は文の一部として収まります。ところが十五字の文に同じ句を入れると、半分以上が比喩になり、主節のほうが付け足しに見えはじめる。短い文に長い比喩を入れると据わりが悪いのは、感覚ではなく比率の問題です。手は二つあって、句を短い形に取り替えるか、主節に語を足して分母を大きくするか。どちらでも比率は下がりますが、後者は文全体を重くするので、速く読ませたい場面では前者しか残りません。連続する三文の比率を並べて眺めれば、比喩がどこで文を乗っ取っているかは目で分かります。乗っ取られた文が一つだけなら、それは強調として読まれる。二つ続くと、比喩が地の文の代わりに働きはじめ、書き手が事態を描く仕事から降りたように見えます。
だから、比喩を選び直すときには、言い換え候補を意味の近さだけで並べても足りません。五拍の候補と八拍の候補は、文の中でまったく違う働きをする。前者は動詞に貼りついて速度を保ち、後者は動詞を引き離して溜めを作る。実際に迷ったら、指で拍を数えてしまうのが早い。文体の議論は感覚の話に流れやすいのですが、拍だけは数えられる。数えられるものから決めていくと、残った迷いが本当に意味の迷いなのかどうかも、はっきりします。