六拍。この直喩を一つ挟むために、一文が余分に背負う長さです。き、り、の、よ、う、な、と数えれば六。短いと感じるかもしれませんが、日本語は修飾が前に来る言語なので、この六拍はまるごと、名詞が現れるまでの待ち時間として加算されます。読者は主要部が来るまで判断を保留し続ける。長さの負担は文字数ではなく、この保留時間のほうにかかります。
内訳を見ると、もう少し具体的になります。語彙密度——文の中で内容語が占める割合——という指標で測ると、この六拍のうち内容語は一つだけです。残りは助詞と助動詞の連なりで、それ自体は世界について何も述べない。つまり直喩は、長さを確実に増やしながら、情報の担い手は一つしか増やさない構造をしている。密度を下げる操作である、と言い切ってよさそうです。ただし密度が下がることは欠点ではありません。内容語の詰まった文が続くと読者は息を詰めるので、密度の低い区間は呼吸として要る。
文の長さの分布で考えると、この種の修飾は長いほうの裾を作ります。すべての文が同じ長さに揃った地の文は、意味が通っていても平板に読める。逆に裾ばかりが伸びれば読みにくい。経験的な印象にすぎませんが、地の文の呼吸を決めているのは平均の文長ではなく、ばらつきのほうだという気がします。ここは断定できません。ただ、推敲で文を短く整えたのに前より退屈になった、という現象は、分散を潰した結果として説明がつきます。
同じ六拍でも、置く位置によって負担は変わります。名詞にかかる形なら、待たされるのは直後の一語ぶんで、たいてい数拍で解決する。ところが述語にかかる形に組み替えると、修飾される動詞は文末にあるので、あいだに主語や目的語がいくつも挟まりうる。同じ材料でも、保留の長さが数倍に伸びる場合がある。推敲で直喩の位置を動かしただけで文の重さが変わる原因は、意味よりも、この待ち時間の変化にあるのでしょう。
ここで自分の計算に異議を唱えておきます。長さと密度だけで直喩の価値を測るのは乱暴です。「霧のような記憶」と「曖昧な記憶」を並べれば、後者のほうが短く、内容語の比率も高い。指標の上では優れている。それでも読者の内側では何も起きません。拍あたりの効果は一定ではないのだから、計量は使えないのではないか。おそらく、計量が効く場所がずれているのだと思います。一本の直喩の当否は測れない。測れるのは間隔のほうです。
同じ型の直喩が近い距離に二つ並ぶと、読者は型のほうに気づきます。内容ではなく構文が見えてしまう。だから推敲で数えるべきは、一頁あたり何個といった総量ではなく、直前の何行に同じ型があったか。十行以内に二つ目が来ると、二つ目は比喩として働かず、書き手の癖として登録される。逆に、間隔さえ空いていれば、多少ありふれた直喩でも像を結びます。六拍の負債は、単独ではいつでも払える程度に小さい。払えなくなるのは、続けて借りたときだけです。