英語で臆病者を指すのに yellow を使う言い方があります。これを日本語に移すとき、色をそのまま残す訳は成立しません。日本語のこの色に、怯えという含みが載っていないからです。訳文では色を捨てて意味だけを取るか、注を付けるか、どちらかになる。捨てれば原文の映像が消え、注を付ければ本文の速度が落ちる。翻訳で行き詰まるのはたいてい、語の指す範囲ではなく、語に貼りついた評価のほうです。範囲だけなら、どの言語もほぼ同じ波長域を指している——指しているものが同じだからこそ、貼りついたものの違いが目につく。
逆向きにも同じことが起きます。日本語には高い声を色で言う表現があり、女性や子どもの声援を指すときに使われる。英語で同じ色を使ってこれを言うことはできません。フランス語には、ぎこちない作り笑いを同じ色で呼ぶ言い方があると知られています。三つの言語が、可視光のほぼ同じ帯域に対して、怯え、甲高さ、気まずさという別々の情動を割り当てている。物理量は共有されているのに、そこから伸びる比喩の枝は言語ごとに違う方向へ出ている。歴史の側でも枝は分かれていて、東アジアでは五行思想と結びついて中央や高貴さを表す色とされ、ヨーロッパでは裏切りの色と見なされる場面があったと言われます。同じ色が、片方では権威、片方では不実の記号になる。
色彩語そのものの研究では、言語が基本的な色名を獲得していく順序に一定の傾向がある、という説がよく知られています。その順序の中で、この色は比較的早い段階に現れる基本語に数えられる。ただし日本語の場合、形態のほうに癖があります。直接イ形容詞になれる色名は白・黒・赤・青の四つで、この色は「色」という語を挟まないと形容詞の形になりません。茶も同じです。四つだけが古い層に属するという説明がなされることが多く、形態の差がそのまま歴史の層の差として読める。名詞に接尾辞を足してようやく形容詞になる語は、活用の形も長くなり、連体形で名詞にかけたときに一拍余分に場所を取ります。古い四語が文の中でどこにでも置けるのに対して、こちらは置き場所を選ぶ。
ここで注意が要ります。形態が新しいことと、比喩の含みが薄いことは別の問題です。前者から後者を導くのは飛躍でしょう。実際、含みが薄いわけでもない。声について使う用法は十分に定着しているし、未熟さを嘴の色で言う慣用句もある。むしろ実務に効いてくるのは、意味ではなく音の長さのほうです。この形容詞は四拍で、赤いは三拍。色名を二つ並べる文では、この一拍の差が読点の位置を変えます。花の名を添えて列挙すると、片方だけ尻尾が伸びて、対句の形が崩れる。訳文が妙にもたつくとき、原因が語彙選択ではなく拍数にあることは珍しくありません。原文で二音節どうしが釣り合っていた対句が、訳した先で三拍と四拍になれば、揃っていたものが揃わなくなる。意味の等価を守った結果、形の等価が失われる。
一方で、翻訳を素通りするものもあります。標識や警告に使われる用法です。工事現場、注意喚起、競技の反則提示——これらは近代に整備された記号の体系で、言語の外側で共有されている。だから訳しても失われません。失われるのは慣用句のほうだけで、記号のほうは残る。自分で書く側に立つなら、この色に何かを託したいときは、日本語の中で生きている含みと、言語の外で共有されている記号と、その二つの層を分けて考えるのが安全です。どちらにも属さない含みを持たせたければ、色名に頼らず、場面のほうで一から組み立てるしかない。