国木田独歩が武蔵野の雑木林を歩き回って書いた文章は、名所でも旧跡でもない林と道と光を、それ自体として眺めた記録でした。柄谷行人はこうした事態を「風景の発見」と呼んでいます。それ以前に書かれてきた土地は、和歌や故事によってあらかじめ意味を与えられた場所であり、見る前から何を見るべきかが決まっていた。意味を剥がされた土地が文章のなかに現れるまでに、近代の日本語はそれなりの時間を要しています。
この順序が効いてくるのは、人物が背景に紛れるという描写が、風景の発見のあとでしか成立しないからです。あらかじめ意味を負った土地には、人が紛れ込む余地がない。名所に立つ人物は、名所と対になった人物としてしか書けません。背景が匿名になってはじめて、そこへ紛れることが選択として書けるようになる。境目を失うという形容が近代小説の語彙に加わったのは、風景の側の変化が先にあったからだ。
古い物語にも、人と人ならざるものの境が崩れる話は数多くあります。説話集には人が獣や草木に転ずる筋が並び、能には亡霊が土地そのものとして現れる曲がある。ただしそれらは境界を越える出来事であって、境界が薄れていく過程ではありません。変身譚には、変わる前と変わった後という二つの状態があり、その間は語られないか、一瞬で通過される。近代の描写が新しく手に入れたのは、その通過されていた区間のほうです。まだ人であり、しかしすでに輪郭が怪しい——この宙づりの時間を書く需要が生まれて初めて、状態の途中を指す形容が必要になった。
文体の側にも条件がありました。輪郭が失われつつあるという状態は、始まりも終わりも指さない中間の時間です。これを書くには、動作の進行と結果の残存を言い分ける形式が、地の文で自由に使えなければならない。「〜ていく」「〜つつある」「〜かけている」。言文一致を経て口語の相の体系が地の文に入ってきたことで、この区間を名指す手段が一気に増えました。完了した変化を報告する形と、進行中の変化を提示する形は別のものです。前者しか持たない文体では、紛れていく途中を書こうとしても、紛れ終わった後の報告にしかなりません。
夏目漱石の『草枕』は、画家である語り手が出会う人々を絵の題材として眺める態度を「非人情」と呼びました。人が風景に紛れて見えるという事態は、観察する側がその人を人として見るのをやめた瞬間に起きるものでもあります。つまりこの形容には、対象の輪郭を溶かす働きと同時に、観察者の冷たさが折り込まれている。書き手が意識していなくても、読者はそちらを受け取ることがある。
現代のウェブ小説では一人称の語りが多く、ここで制約が一つ生じます。自分が風景に紛れていく様子を自分で書くことは、原理的に難しい。外から見られない位置に語り手がいるからです。だから一人称でこの形容を使う場面は、他者を眺める場面か、そうなりたいという願望を述べる場面のどちらかに絞られる。視点の設計が、そのまま使える語彙の在庫を決めている例です。選べないことを先に知っておくほうが、選ぶことより効きます。