打ち合わせの終わりに、誰かが「結局は予算の話ですよね」と言う。反論の余地はありません。全員がそう思っていた。それでも空気が下がる。誰も反論せず、誰も同意もしない、あの数秒がそこで生まれます。反論できないのに困る、という現象がここにあります。発言の内容が偽だから困るのではない。真であることが確定しているのに、言われると場が壊れる。この落差を扱う枠組みは、真偽の側にはありません。
会話には、参加者が暗黙に守っている手続きがあるとされます。必要なだけの情報を出し、根拠のないことを言わず、話題に関係のあることを述べ、分かりやすく話す——こうした原則の体系はよく知られています。興味深いのは、この体系のうち「根拠のあることだけを言う」を極端に守ると、他の原則が壊れることです。予算の話だと言い切った人は、真であることしか言っていない。しかし必要以上に言った。言われた側は、それまで積み上げていた企画の話が全部無効になったように感じる。原則どうしが衝突したとき、どれを優先するかまでは体系のほうが決めてくれません。優先の判断は場に委ねられていて、そこを読み違えた発話が、正しいまま浮くことになります。
慣用句の側を見ると、「身」は器の本体、「蓋」はふたを指します。器から蓋を外し、さらに本体もない。中身がむき出しになる。ここで一度立ち止まりたいのは、器の役割です。器は中身を隠すためにあるのではなく、中身を「中身」として成り立たせるためにあります。皿から溢れたスープは、スープと呼びにくい。会話における婉曲も同じで、遠回しな言い方は情報を隠しているのではなく、その情報が置かれる形を与えている。だから器を外す発話は、情報を暴露しているのではなく、情報の形を壊している。面白いのは、自分で予告すれば咎めを免れることです。身も蓋もない言い方をすれば、と前置きしてから同じ結論を述べると、座はそこまで下がりません。予告そのものが薄い器の代わりをしていて、聞き手は形が壊れることを織り込んだうえで結論を受け取れる。壊すと宣言する一言が、壊れ方の管理を引き受けているわけです。
もっとも、婉曲がつねに正しいわけではありません。医師が検査結果を伝えるとき、事故調査の報告書を書くとき、器のある言い方は害になります。そこでは受け手の判断が必要で、判断には形ではなく数字が要る。とすると、この慣用句が非難として働くのは、その会話が関係の維持を目的としている場合に限られる。目的が意思決定に移った瞬間、同じ発話は美点に変わります。同じ文が、場の目的によって長所にも短所にもなる——評価が発話の内側にないという点で、これは意味の問題ではなく用法の問題です。
日本語には、発話の中身ではなく形式を裁く慣用句がいくつも並んでいます。歯に衣着せぬ、にべもない、取り付く島もない、木で鼻をくくる。どれも、何が言われたかではなく、どう言われたかを評価している。並べてみると、二つの群に分かれることに気づきます。歯に衣着せぬは話し手の側を測る語で、遠慮を捨てた勇気として讃辞に転じられる。ところがこちらの句はそうなりません。測っているのが話し手の徳ではなく、言われたあとに場へ何が残ったかだからです。にべもない、取り付く島もない、の二つは聞き手から見た拒絶を測っていて、位置としてはいちばん近い。ただしあの二つが応答の欠如を言うのに対して、こちらは応答が十分すぎたことを言います。過不足の向きが逆になっている。同じ性質の発話でも、話し手を見るか場の帰結を見るかで、評価の向きは決まってしまう。
物語の中でこの型の台詞を担う人物は、初登場では強く見えます。全員が守っていた手続きを一人だけ守らないので、判断力があるように読める。ところが二度目からは効きが落ちる。含みを剥ぐ操作は、剥がれる含みが積み上がっている場合にしか驚きを生まないからです。三度目には、その人物は場の目的を読めない人として扱われはじめる。二度目以降の台詞で落ちているのは、情報量ではありません。剥がすべき包みの厚みのほうです。
だから設計としては、直前に誰かが丁寧に器を組み立てている場面にだけ置くのが有効です。長い説得、慎重な前置き、飾りの多い謝辞。そこへ短い一文を落とす。落とす位置は、組み立てが完成した直後がいちばん効きます。効果を生んでいるのは台詞の内容ではなく、直前の文の長さと丁寧さのほうです。この慣用句を活かせるかどうかは、台詞そのものより、その前の三行を書く段階で決まっています。