大きなコーパスで動詞を頻度順に並べると、上位はほぼ決まった顔ぶれになります。「する」「なる」「言う」「見る」といった超高頻度の動詞が最初の数十位を占め、順位が下がるにつれて頻度は急な坂で落ちていく。順位と頻度のこの関係にはジップ則という名前がついていて、おおまかに言えば、順位が二倍になると頻度がおよそ半分になるという反比例に近い分布です。言語だけでなく都市の人口などにも現れる、よく知られた経験則です。この坂道のどこに立っているかで、語の性格はかなり決まります。
「見る」が最上位圏の住人だとすれば、「見つめる」は中腹に立つ語です。そしてこの位置の差は、単なる出現回数の差ではありません。言語学では、高頻度の語ほど意味が薄く広くなっていく現象が知られています。「見る」は「様子を見る」「面倒を見る」「やってみる」と拡張を重ね、視覚から離れた用法を大量に抱え込みました。頻度の坂を登るほど、語は磨り減って万能になる。一方、中腹の語は使用回数が少ないぶん摩耗も遅く、意味の輪郭が保たれます。じっと、長く、対象から目を離さずに見るという焦点の張りつめた意味を、この動詞がいまも保持していられるのは、頻度の谷間にいるおかげだと考えられます。
語の長さも、頻度と無関係ではありません。よく使う語ほど短くなるという傾向は経験的によく知られていて、言語が全体として短さの経済で回っていることの現れだと説明されます。二語を並べると、その傾向にきれいに従っている。み・るの二拍に対して、み・つ・め・るの四拍。ちょうど倍の長さで、使用回数のほうは逆に、おそらく桁で違う。そしてこの四拍という長さは、文の中で無視できない時間を占めます。二拍の動詞は読者の目を素通りしますが、四拍の動詞は頭の中で一度音として鳴る。持続を意味する語が、それを言うのに必要な時間まで自前で持っている——たまたまではあるにせよ、都合のいい一致です。
共起の数え方にも一段の工夫があります。単純に隣り合う回数を数えると、「の」や「を」のような高頻度語ばかりが上位に来てしまう。そこで、二つの語が偶然一緒に出る場合の期待値と比べて、実際の共起がどれだけ多いかを測る。互いが互いをどれだけ予測するかという物差しです。この物差しで見たとき、「じっと」とこの動詞の結びつきは強い部類に入るはずです——「じっと」が現れた時点で、続く動詞の候補は劇的に狭まる。そして共起が強すぎる組み合わせは、読者の頭の中で一語のように処理されます。予測どおりの語が来ても、目は止まらない。手垢と呼ばれる現象の正体は、この予測の的中率の高さです。
数えることの限界も、同じ道具立てから見えてきます。語の意味を、その語が現れる文脈の分布そのもので表す、という考え方があります。似た文脈に現れる語は似た意味を持つ、という仮説に立って、語を数値の並びに置き換える方法です。これにかけると、この動詞は凝視する・見入る・注視するのすぐ近くに置かれる。意味の近さの推定としては妥当でしょう。ところが、近くに置かれた語のうちどれを選ぶか、という判断は、距離の数値からは出てきません。凝視するは調書に書けてもラブレターには書けませんし、見入るは対象への敬意をどこかに残しています。数えれば語の親戚関係は見えますが、その一族のなかでの席次までは見えないということです。分布は語がどこに現れたかを記録しますが、どこに現れなかったかを説明する義務は負っていません。空白の理由を埋めるのは、いまのところ書き手の仕事です。
目的語の側を数えても、この動詞の輪郭が出ます。「見る」の目的語は映画から夢まで森羅万象に開いていますが、この動詞が取る対象は、顔、目、写真、一点と、人とその痕跡に強く偏る。持続と焦点という意味の成分が、注視に値する対象だけを選り分けているためでしょう。動詞の意味を辞書で引く代わりに、その動詞が連れて歩く名詞の一覧を眺める。計量的な語の観察がくれるのは、そういう横顔です。
頻度データは、語の履歴書のようなものです。どれくらい働いてきたか、誰と組んできたか、どの案件に呼ばれるか。書き手がここから引き出せる実用は、予測を外す技術です。的中率の高すぎる副詞を添えるくらいなら、副詞を捨てて、視線の持続を文の長さや沈黙の描写で示す。数えられた過去から少しだけ外れた場所に、まだ摩耗していない組み合わせが残っています。