同じ内容を二通りに書いて、拍を数えてみます。「そこしれぬきょうふ」で八拍、「そこがしれないきょうふ」で十拍。音の長さの差は二拍にすぎません。ところが構造の違いはもっと大きい。前者は修飾部が一語のように緊密で、後者は助詞と助動詞が挟まって節の形をとります。読者が処理する手続きの数が違う、と言い換えることもできる。文の長さをほとんど変えずに、読む速度だけを変えられる書き換えです。
「そこがしれない」の側には、格助詞の「が」と打消の助動詞が表に出ています。文語の打消「ぬ」を保った連体形は、それを一語のうちへ畳み込み、表に出る機能語の数を減らす。減ったぶん、同じ長さの中により多くの内容を積めることになります。ただし、積めば読む速度は落ちる。落ちること自体を効果として使う場面と、単に読みにくくなる場面があり、その分かれ目は前後の文の密度にあります。密度の高い文が連続すれば、読者は情報を積み残したまま先へ進むことになる。
もうひとつ、この形は述語になれません。文の末尾に立てないので、文を終わらせるリズムを作れない。必ず後ろに名詞を要求し、その名詞と一緒に文の途中を通過していきます。述語形に開けば「底が知れない」となり、今度は文末に立てるかわりに節の重さを引き受ける。同じ内容を運ぶ二つの形が、文中のどの位置で働けるかで分かれている。地の文のリズムは平均文長ではなく長短の並び方で決まりますから、どこに置けるかという制約は、そのままリズム設計の制約になります。
修飾の入れ子も数えておく価値があります。連体修飾は、被修飾名詞に届くまで読者に保留を強います。「底知れぬ」の一語だけなら保留は短くて済みますが、そこへ別の修飾句が重なり、さらに主語や補語の修飾が加われば、保留の数だけ処理が積み上がる。日本語は修飾が前に来る言語なので、この負荷は文の前半に集中します。重い修飾句を一文に二つ以上置くと、読者は名詞に到達する前に最初の修飾を忘れる。長い文が読みにくいのは長さそのもののせいではなく、保留の同時数が増えるためだと考えたほうが、実際の書き直しには役に立ちます。
置き場所によって、同じ修飾句が装飾にも装置にもなります。長い文の中に埋めれば他の要素に紛れて沈み、短い文に置けば文の大半を占めて全体を支配する。「底知れぬ沈黙だった。」と一文で切れば、修飾部が文のほとんどになり、そこで確実に速度が落ちます。効かせたいなら短く切る。効かせたくないなら長い文の中ほどに置く。強度は、語そのものよりも、語と文長の比で決まると考えたほうが実際に近いでしょう。
最後に逓減の問題があります。重い修飾句は繰り返すと効かなくなります。二度目は初出の記憶を薄める方向に働き、三度目には内容ではなく文体の癖として読まれる。正確な回数を数値で言うことはできませんが、経験的には、この種の語は一作品にいくつも置けません。低頻度であることが効果の源泉なので、頻度を上げれば源泉のほうが涸れる。加えて「ぬ」は現代口語で生きた活用ではなく、語の中に固定して残った形です。口語の地の文に置けば、その一語だけ層の違う言葉が露出する。段差があること自体は悪くない——問題は、段差に気づかないまま装飾のつもりで置くことです。