区間 0 以上 1 未満の実数の集合を考えると、この集合は 1 を超えません。1 は上界であり、上界の中で最小のもの、つまり上限です。ところが 1 はこの集合に属していない。集合の中に最大の要素はありません。どの要素を持ってきても、それより大きい要素がある。上限は存在するのに、最大元は存在しない——この二つを区別する場面は解析学の入口で出てきますが、区別の必要が実感されるまでには少し時間がかかります。
この構図が、ある種の退場の描かれ方とよく重なることに気づきました。地位や関係から自分を外した人物は、集合の中の最大元ではなくなります。しかし物語の中では、外れたあとのほうが強く参照されることがある。誰も超えられない基準として残り、しかしその位置には誰も立っていない。集合の外に置かれた上限です。中にいる誰よりも上にあるが、要素ではない。この状態を作れるのは、辞めた人物だけです。上限を要素として集合に付け加えてしまえば、その集合は閉じます。閉じた区間には最大元があり、勘定はそこで終わる。物語の側でも同じことが起きて、抜けた人物を回想の中で改めて席に着かせ、正式に讃えてしまうと、場は閉じ、以後は誰も動かせなくなります。開いたまま置いておくほうが、中に残った要素は落ち着きません。
もう一つ、稠密性のことを考えます。実数は、どの二つの数の間にも別の数を持ちます。だから「1 に最も近い、1 未満の数」は存在しない。0.9 を出せば 0.99 があり、それを出せば 0.999 がある。譲歩を連続的な後退として考えると、これと同じ構造になります。どこまで下がっても、もう少し下がれる。最後の一歩がない。稠密に並んだ順序の中では、任意の二点のあいだに必ず第三の点が入ります。だから「これ以上は下がらない」という地点を、集合の内側から指定することができない。指定できるのは、集合の外にある値を持ってきて、そこを境と呼ぶ場合だけです。譲る側が最後の一線を口にするとき、その一線はたいてい、自分がまだ立っていない場所を指しています。
とすると、この動詞句が使われるとき、そこで起きているのは連続的な後退ではないはずです。実際、この句は完了した一点の出来事として書かれます。辞表を出す、部屋を出る、名簿から名前を消す。連続的な減少ではなく、離散的な跳躍。じわじわと会う回数が減っていく過程を指して、この語を当てる人はあまりいません。過程には終点がないので、名づけようがない。進行形にすると座りが悪くなるのも、同じ事情の現れでしょう。持続の幅を内側に持たない句には、途中という時制が用意されていない。
ここで自分の観察に異議を唱えておきます。現実の退場の多くは、実際にはじわじわ進みます。返信が遅くなり、誘われる回数が減り、いつのまにか呼ばれなくなる。それでも当人は「引いた」と語る。とすれば、跳躍は出来事の側ではなく、語りの側にあるのかもしれません。連続的に起きたことを、あとから一点に丸めて記述する。数学の言葉を借りるなら、実際の推移は連続でも、記述は階段関数になっている。
階段関数という見立てを、もう一段だけ押してみます。丸める前の推移は、そもそも単調ですらない。単調に減っていく数列で下に有界なものは必ず収束しますが、行きつ戻りつする数列には極限がありません。連絡を絶ったはずの相手に一度だけ返信し、辞めたはずの集まりへ一度だけ顔を出す。その一回が混ざった時点で単調性は失われ、どこかへ落ち着くと主張する根拠も消えます。それでも当人は、あのとき決めたのだ、と言い切る。言い切れるのは、記述の側が振動を捨てて、単調な列に整え直しているからです。整えること自体を嘘とは呼びません。ただ、どの一回を残し、どの一回を落としたかは、必ず誰かが決めている。
そして丸める位置は、書き手が選べます。玄関で靴を履いた瞬間か、電話を切った瞬間か、名簿の行を消した瞬間か。どこを選んでも嘘にはなりませんが、選んだ点が読者にとっての決定の時刻になります。過程を延々と書いてから最後に「引いた」と述べると、読者はどの時点で決まったのか分からないまま置かれる。一点を先に置いて、そこから遡って過程を書くと、その一点が、集合の外にあり、中のどの出来事よりも高い位置にある上限として機能しはじめます。選ばずに済ませる手はありません。書き手が置かなければ、読者が自分の都合のいい場所に置いてしまう。