拍を数えてみます。み・を・こ・が・す・ほ・ど・の。八拍。日本語の連体修飾は被修飾語の前に置かれるので、この八拍のあいだ、読者は何が修飾されるのかを知らないまま待たされています。修飾句が長いほど宙吊りの時間は伸び、被修飾語に到達した瞬間に、それまで保留していた情報が一気に確定する。短い修飾句なら気づかれない負荷ですが、八拍あると、体感できるだけの遅れが生じます。
一文の中でこうした長い修飾句が二つ以上並ぶと、文の重心は後方へ移ります。読者は前半を保留のまま抱え、後半で処理する。処理の集中する位置が文の重心で、そこに何が置かれているかで文の印象が決まる。だから長い修飾句は、その文で最も重い名詞にだけ付けるのが理にかなっています。修飾句の長さは、書き手が読者の注意を配分する道具です——飾りではなく、配分の目盛りだと考えたほうが扱いやすい。一文の全長に対する割合で見ると、判断はもっと具体的になります。短い文を積み重ねる書き手の一文が二十数拍なら、この句だけで三分の一を占める。長い文を書く人の四十拍の文に置けば五分の一で収まる。同じ句が、文体によってまったく違う重さになります。
宙吊りの中身も、分解しておく価値があります。この八拍は均質ではありません。前半の五拍は目的語と動詞から成る一つの節で、読者はまずそれを組み立てる。続く「ほど」で、その節が出来事の報告ではなく程度の基準へ格下げされたことが分かり、最後の「の」で、基準がさらに名詞の修飾へ回されることが分かる。被修飾語に一度も触れないまま、三段階の判断を順に下していることになります。日本語の修飾は左から積み上がる形なので、いったん下した判断を途中で取り消すことはできません。形容詞一語の修飾には、この積み上げがない。効いているのは長さそのものではなく、長さの内側にいくつ節目があるかです。同じ八拍でも、節目の少ない句なら負荷はずっと軽く済みます。
もう一つ、この句には程度の目盛りが埋め込まれています。「ほどの」は比較の基準を示す形式で、ここでは身体が焼けるという状態が基準に置かれている。強度を数値で示すのではなく、極端な事態を持ち出して、それに匹敵すると述べる方式です。程度副詞を重ねる方法よりも情報量は多いはずですが、実際にはそう感じられないことがある。基準として持ち出された事態が、あまりに定番だからです。「ほど」の前に立てる事態を並べてみると、偏りも見えてきます。身が焦げる、気が狂う、死ぬ。身体や精神が壊れる方向の出来事ばかりで、満たされる方向の極端な事態が基準に立つことはめったにない。程度の上限を示す語彙は、たいてい破壊の語彙から借りてこられています。
慣用の度合いが上がると、語の連なりは予測しやすくなります。この句の前半まで読んだ読者は、次に来る語をかなり絞り込める。絞り込めるのは、後続に立てる名詞の集合がもともと小さいからです。感情の名なら収まりますが、場所や道具の名を続けると文が壊れる。候補が少ないほど、読者は早く当ててしまいます。予測できる語列を読むとき、視線は滑ります。厳密な計測を持ち出すつもりはありませんが、経験的には、定型に近い箇所ほど読み返しの回数が減る。読み返しが減るということは、その部分に費やされる時間が短いということで、つまり定型は速度を作る装置でもある。
ここで自分の観察を疑っておきます。滑ることは、つねに欠点なのだろうか。物語には速く通過させたい箇所があります。移動、経過、既知の説明。そこに定型を置くのは正しい設計で、独創的な比喩を置くほうが害になる。厄介なのは、この句の場合、滑りが宙吊りの手前で起きることです。八拍かけて溜めを作っているつもりでも、読者は三拍目あたりで着地点を当ててしまっている。待たされる時間だけが残り、待たせる効果のほうが先に消える。
対処はいくつかあります。当てられた着地点のほうを動かす——この句の後ろに来ると読者が思っている名詞をやめて、別の名詞を置く。あるいは修飾句を切り離し、名詞を先に出してから後ろで述べ直す。どちらも、八拍の宙吊りを保ったまま、着地点だけをずらす操作です。定型を捨てる必要はない。読者が滑る位置と、こちらが止めたい位置を、一致させないようにするだけで足ります。ずらした先が突飛すぎれば、今度は溜めではなく段差になる。動かす幅は、候補の集合のすぐ外側までで十分です。