声に出すと、み・を・ひ・る・が・え・す、は七拍あります。ここでいう拍は、俳句を五・七・五と数えるときの単位と同じもので、日本語のリズムを測る基本の目盛りです。同じ動作を指す言い方を並べてみると、きびすをかえす、も七拍、むきをかえる、が六拍、ふりむく、が四拍——動作の所要時間はどれも一秒に満たないのに、それを書き取る語の長さは倍近く違う。文の中では、この長さの差がそのまま時間の感触になります。意味が同じでも、読み下すのにかかる時間は同じではない。
ひるがえす、の内側を見ると、ラ行音とガ行の濁音が並んでいます。和語ではラ行音が語頭に立たないという原則が古くから指摘されており、ラ行は語中で他の音に挟まれて現れることが多い。挟まれた位置のラ行は、前後の母音をつないで音の切れ目を作りません。そこへ濁音のガがひとつ入る。清音だけで滑っていた流れに、一箇所だけ質量のある音が置かれる構造です。ひ・る・が・え・す、と切ってみると、第三拍に重心があり、そこを過ぎるとエ・スの母音が開いて音が抜けていくのが分かります。
拍の中身も見ておきます。この七拍には、特殊拍がひとつも入っていません。促音も撥音も長音もなく、七つとも子音と母音の組でできた自立拍です。特殊拍は一拍ぶんの時間を占めながら、それ自体はほとんど音の情報を運びません。混ざれば、そこで流れが一度詰まる。ぱっと、さっと、くるりと——回転に添えたくなる副詞は、たいていこの詰まる拍を抱えています。ぱ・っ・と で三拍、く・る・り・と で四拍。拍の総数は増えるのに、読んだ印象はかえって速くなる。詰まって放たれるという形そのものが、瞬間の記号として働くからでしょう。こちらの語にその仕掛けはなく、七拍が同じ歩幅で並んで流れていきます。副詞を足して速く見せるか、足さずに均質な七拍を通すか。同じ動作に対する、別々の設計です。
ここで慎重になる必要があります。日本語の擬音語・擬態語では、清音と濁音の対立が大きさや重さの差を作ることが知られていますが、この規則を通常の語彙にそのまま持ち込むのは飛躍です。ぐらぐらは不安定でも、がっしりは安定している。濁音が常に重さを意味するわけではありません。安全に言えるのはもっと狭い範囲で、清音の連続に濁音がひとつ混ざると、そこが音の区切りとして知覚されやすい、という程度でしょう。音象徴の話は、認めすぎても否定しすぎても実務の役に立たなくなります。
面白いのは、語の長さと動作の速さが逆を向いていることです。動作は一瞬、語は七拍。読者がその一句を読み下す時間のほうが、描かれた動作より長い。この不一致は、映像でいえば引き延ばしに近い効果を生みます。速さを前面に出したければ拍を削ればよい。翻る、なら五拍で済み、主語を布に譲るぶん人物の輪郭も薄くなる。踵を返す、は同じ七拍ですが、キ・ビ と破裂音が続くぶん、歩幅の大きい断ち切り方に見える。拍数まで揃った二つの言い方が別々の像を結ぶのですから、選択の基準は意味の差だけでも、長さの差だけでもありません。
語尾の音も勘定に入れておきたい。この語の末尾は、無声の摩擦音にウ段の母音が続く形です。東京あたりの話し方では、この位置の母音は息だけになって消えることがある。語末が息で終わる語は、余韻を残さずそこで切れます。自動詞の側と比べると差が見えてきます。翻る、の末尾はラ行で、有声のまま音が続き、口の中にわずかな残りが出る。他動詞は切れ、自動詞は伸びる——同じ語幹を共有しながら、末尾の一拍だけで終わり方が変わっている。人物が自分の意志で向きを変える場面と、布が風に任せて裏返る場面とでは、必要な終わり方も同じではないはずです。語形を選ぶことは、意味を選ぶと同時に、文の切れ方を選ぶことでもある。
一文のリズムは、句読点の位置と拍の配分でほぼ決まります。七拍の語を文末に置けば、そこで息が長く伸びて場面が閉じる。文頭に置けば、後続が相対的に短くなり、動作が先行して結果があとから追いつく形になります。同じ語でも、置く位置によって役割が入れ替わる——音の長さは、意味とは独立に、時間を書くための手段として使えます。黙読していても音韻の表象は働いていると考えられており、声に出さない読者の中でも、拍はおそらく数えられている。数えられている以上、拍は意味と同じ資格で文体の一部として扱ってよいことになります。