字幕の一行を英語に移す場面を想像してみます。門番が主人公を通した、その直後の台詞に、この動詞が置かれている。訳語の候補はすぐ出てきます。ところが候補を並べた瞬間、原文には存在しなかった選択を迫られていることに気づく。miss を選べば、門番は気づかなかったことになる。turn a blind eye や let it slide を選べば、気づいたうえで黙っていたことになる。overlook は書類の不備を見落とす方向に寄る。原文の一語が持っていた幅が、訳語の側では最初から割れているのです。
つまりこの動詞は、不随意の失敗と、意図的な不作為を、同じ語形で引き受けています。試合を見逃した人は不注意で、罪を見逃した人は寛容か共犯です。方向が正反対なのに、活用も文型もほとんど変わらない。区別を担うのは目的語の性質と、「〜てやる」のような補助動詞の有無で、これらが欠けている文では、どちらとも決まらない。日本語の側は、決めずに済ませる書き方を許容している。
他の言語でも似た幅を持つ語がないわけではありません。ドイツ語の übersehen は見落とすの意で使われますし、隣接する領域には黙認を表す言い回しが別に用意されている。中国語では、機会を逃す側の語と、咎めずに通す側の語がはっきり分かれていて、前者と後者を一語で兼ねる発想がそもそも薄い。こうして並べると、日本語のこの一語が特別に曖昧なのではなく、どの言語も分節の線をどこかに引いていて、線の位置が違うだけだと分かります。分節の線が引かれていない場所は、その言語にとって区別する必要が薄かった場所です。
先ほど挙げた overlook にしても、英語の側で一語二義になっています。書類の不備を見落とすの意味を持つ一方で、高い場所から見晴らすの意味も持つ。丘の上の家が町を overlook すると書けば、それは町を見下ろしているということです。見落とすと見晴らすが同じ語形に同居しているのは、上を通り過ぎるという空間の像が両方の底にあるからだと説明されます。ただし、この二義は文脈でほぼ確実に分かれる。丘は目を伏せませんし、書類は町を見下ろしません。日本語のこの動詞が厄介なのは、そこが違うからです。同じ人物が、同じ対象に対して、どちらでもありうる。二義が主語も目的語も共有したまま並んでいるところに、決められなさの本体があります。
訳す側の事情も一つ足しておきます。字幕には、読み切れる速度の上限があります。画面に出ている時間に対して置ける文字数はおおよそ決まっていて、含みを注釈で補う余地がない。原文が決めずに済ませたことを、訳文は一語で決めてしまうことになります。翻訳とは、原文が保留した分岐を代わりに踏み抜く作業でもある。字幕に限らず、訳文は原文より必ず少しだけ断定的になります。読者に届くのは、訳者がどちらを選んだかという判断の結果であって、原文が持っていた宙吊りではない。逆に言えば、原文の宙吊りが本物かどうかは、訳させてみると一度で分かります。訳者が迷わずに一方を選べる文なら、宙吊りは最初から存在していなかったことになる。
ただ、ここで気持ちよく相対主義に着地したくない。曖昧さは本当に対等な選択なのか、という疑いが残るからです。実務の文書では、この語の両義性は明確な欠陥として現れます。規程に「軽微な違反は見逃す」と書けば、担当者に裁量を与えたのか、検査の網から漏れることを容認したのか、読む人によって解釈が割れる。翻訳者が困るのは、日本語の側が本来決めるべきことを決めないまま流通させているからでもある。曖昧さは、文脈が補える場合にだけ許される贅沢です。
小説では、その贅沢が使えます。物語の途中で門番がこの語を使ったとき、読者はまだ、それが失態なのか温情なのか判定できない。判定を保留したまま先へ進み、後の場面で答えが割れる。訳しにくさの正体は、書き手が意図を確定させずに一文を書ける自由のことで、その自由は伏線の材料そのものです。だから翻訳を想定する原稿を書くときは、逆から確認するといい。この一語を英語に置き換えるとしたら、いま自分はどちらを選ぶか。即答できるなら、その文は日本語のままでも読者に伝わります。即答できないなら——その未決定は、あとで回収する予定があるものなのか、単に自分が決めていないだけなのか。前者なら残す。後者なら、書き直したほうが早い。