製本の現場で「見開き」と言えば、本を開いたときに左右に並ぶ二頁のことです。雑誌の折り込み、写真集の中央、地図帳の大きな図版。編集者はこの単位で紙面を設計しますし、印刷所ではこの単位で面付けを考える。ここで働いている語幹は、瞼をいっぱいに開くときのそれと同じものです。閉じていたものを左右へ開く、という動作の骨格が共有されている。ところが日常の会話で、驚いた人の様子をこの語で言う人はほとんどいません。同じ語幹が、印刷の専門語としては現役で、身体の描写としては書き言葉の側にだけ残っている。位相の断層が、一語の内側を走っています。
話し言葉のほうを見ると、その位置には別の言い方が入っています。目をまるくした、目がまん丸になった、びっくりした顔で。いずれも子どもでも使える語彙で、拍数も短く、口の中での滑りがいい。対して瞼を開く動作を漢語系で言う語のほうは、訓読の香りが強く、日常の口からはまず出てこない。ここにあるのは単なる文体の格差ではなく、語彙層ごとの分業です。話し言葉は結果としての表情の丸さを言い、書き言葉は瞼という部位の運動を言う。前者は他人の顔を外から眺めた言い方で、後者は解剖学の記述に近い視点を借りている。誰の目線で身体を記述するかが、層によって違っている。同じ驚きを描いても、選んだ層のほうが、描かれた人物より先に読者に届いてしまうことがある。
ここで自分の観察に疑いを差し挟んでおきます。書き言葉専用という括りは、本当に正しいのか。眼科の説明では瞼の開閉は日常的に話題になりますし、演出の指示、写真の説明文、実況の言葉づかいの中には、この語が口から出る場面がある。専門の現場では、書き言葉的な語彙がそのまま会話に降りてくる。つまり断層は「書き言葉と話し言葉」のあいだではなく、「その語を職業として扱う集団の内と外」で走っているのかもしれない。位相差の軸は、媒体ではなく共同体のほうにあるという見方です。そう置き直すと、専門語が小説の地の文で妙に効くことがある理由も説明がつきます。読者はその語を、書き言葉として受け取るのではなく、誰かの職業的な視線として受け取っている。
翻訳調と呼ばれるものの正体も、この線で少し見えてきます。明治以降の翻訳小説は、原文の身体描写を写しとるために、部位を主語や目的語に立てる構文を大量に持ち込みました。瞼を、瞳を、指先を——こうして身体の部品を名指す語彙が、日本語の書き言葉の中に一つの層として定着した。役割語として「翻訳された人物」を感じさせるのは、個々の語というより、この部品単位の記述の細かさのほうです。日本語話者の日常の口は、身体をそこまで分解しません。分解して語る習慣は、医学や美術や翻訳といった、身体を対象として扱う職能の側から入ってきた。
小説を書くとき、この断層はそのまま資源になります。地の文でだけ瞼の運動を書き、会話文の中では登場人物に「目ぇまん丸にしてたよ」と言わせる。同じ出来事が二つの語彙層で二度記述され、語り手と人物の距離が一行で立ち上がる。逆に両方を同じ層で書けば、語り手は人物に貼りついて、内面の距離がゼロになる。どちらが良いという話ではなく、貼りつけるか離すかを選べるということです。さらに言えば、層は人物ごとに割り当てられる。医者と職人と子どもが同じ驚きを目撃した場面で、三人の証言をそれぞれ別の層の語彙で書けば、説明を一行も足さずに三人の職業が立つ——断層の存在に気づいていない書き手だけが、この使い分けを選べないまま書くことになります。