英和辞典で frugal を引くと、倹約家の、質素な、という訳が並びます。逆向きに引けば simple、plain、modest、austere が候補に挙がる。四つとも辞書の上では同じ日本語へ着地するのに、英語の側では互いに置き換えがききません。frugal は金の使い方の話で、austere は装飾を拒む態度の話。plain には物足りなさの含みが残り、modest は規模の小ささを指す。ひとつの日本語が、四つの方向へ散っていく。
散り方を眺めているうちに、英語の側が持っていて日本語の側が持たない軸があることに気づきます。選んだのか、強いられたのか。frugal も austere も、基本的には主体が選び取った状態を指す語で、だからこそ褒め言葉として働く。強いられた欠乏を言うには poor や needy という別の語が要ります。フランス語の sobre やドイツ語の schlicht も、おおむね選択の側に寄っている。日本語のほうは、この区別を語彙に埋め込みません。同じ一語で、修道院の食卓も、払えないだけの食卓も書ける。
もちろん、文脈があれば読者は判別できます。誰がどういう身分で、なぜそうしているのか。だから語彙が区別しないことは欠陥ではありません——曖昧なのではなく、判断を後ろへ送っているだけです。ただ、翻訳の場面でこの遅延が壊れる。英語へ移した瞬間、訳者は選択か強制かをその場で決めねばならず、原文が保留していたものが確定してしまう。読者は原文になかった情報を受け取ることになる。訳しにくさというのは、多くの場合、語の意味が難しいのではなく、原文が決めずに済ませていた事柄を訳文が決めさせられる、という構造の問題です。
訳しにくい語というと、ふつうは定訳を持たない語が思い浮かびます。わび、さび、甘え。訳者が注を付け、原語のまま置くこともある。ところがこの語には、辞書の上で対応する候補がいくつも用意されています。用意されているからこそ、訳者は立ち止まらない。frugal と置けば文は通り、通ってしまった文からは、原文が保留していた二重性が抜け落ちたことが見えなくなります。欠落は、埋め合わせの見つからない場所ではなく、それらしい埋め合わせが手近にある場所でこそ静かに起きる。対訳辞書は、対応する語があるときほど注意が要る、とは書いてくれません。検算の方法はあって、訳した文をもう一度日本語へ戻してみればいい。frugal から戻ってくるのは倹約であり、austere から戻るのは厳格や禁欲です。出発点の一語には、どの経路をたどっても帰ってこない。
字の成り立ちも同じ方向を指しています。「素」は染めていない糸を指す字で、加工を加えていない状態を意味する。「質」は中身、実質。どちらも「少ない」ではなく「そのまま」を言っている。乏しさではなく無加工——この語が非難にも賞賛にもなりうるのは、量の判定が入っていないからでしょう。何かが足りないと言っているのではなく、足していないと言っている。足していない理由までは、字のどこにも書かれていない。
同じ字を使う「素朴」を並べると、この軸の性格がもう少し見えます。飾らない性質を褒める語でありながら、素朴な疑問、素朴実在論といった言い方では、洗練される前の段階、つまり未熟のほうへ傾く。加工していないという同じ出発点から、一方は美徳へ、一方は未熟へ枝分かれしている。中国語の朴素も、飾り気のなさを指す一方で、哲学の術語としては初期段階を含意する用法を持ちます。この字が背負っているのは価値ではなく、加工の有無という一本の軸だけで、その軸をどちら向きに読むかは外から与えられる。日本語が欠乏の理由を書かずに済ませるのは、字の側にもともと理由を書く欄がないからだと考えられます。欄がなければ、埋める義務も生じません。
だから人物の暮らしをこの語で書くと、読者は必ず理由を待ちます。選んだのか、選べなかったのか。答えないまま次の場面へ進めば、読者はしばらく判断を保留したまま読み続けることになる。この保留は、使い方によってはかなり強い装置になります。裕福な家の食卓が飾り気なく描かれるとき、読者の側で二つの読みが同時に立ち上がり、どちらが正しいかは後の場面まで決まらない。一語で二つの解釈を同時に走らせておけるのは、区別を持たない語だけの特権です。