農産物の直売所に「素朴な味です」という札が立っていて、その日の午後、会議室では誰かが「素朴な疑問なんですが」と切り出している。前者は野菜を褒めていますし、後者はこれから相手の説明の穴を突こうとしています。褒め言葉と、やんわりした異議申し立て。同じ二字が半日のうちに正反対の役を務めているわけですが、言った側も聞いた側も、そこで立ち止まりはしません。辞書はこの落差を別々の語義として立てることで処理します。ただ、語義を分ける前にできることがあって、この語がどんな相手と並んで現れるかを、まとまった量の文章から拾い集めてみるほうが、事情はよほど早く見えてきます。
この語は単独で立つことが少なく、たいてい連体修飾の形で名詞の前に来ます。そこで後ろに来る名詞のほうを集めてみると、まとまりが二つに割れる。片方は疑問、質問、発想といった、思考にかかわる抽象名詞の群れ。もう片方は味、料理、風景、人柄、暮らしといった生活の側の名詞です。中間はあまり厚くない。一つの語の共起相手がこういうふうに二つの山へ分かれるのは、それほど普通のことではありません。多義であっても、共起の分布は連続した一つの丘になることのほうが多い。
分布から意味を読む考え方は言語学に古くからあり、語はその語が連れている仲間によって知られる、という言い方でよく引かれます。この方針をそのまま当てはめれば、二つの山は二つの語義だという結論になる。辞書もおおむねそう分けています。ただ、話者の感覚としては、これが二語だという実感が薄い。どちらの山でも、加工されていない、手が入っていないという同じ核が働いているように読める。分けたほうが記述は整うのに、分けると失われるものがある。
形が変われば、分布も変わります。この語には副詞形があって、素朴に問う、素朴に信じるというふうに、後ろへ来るのは思考の動詞にほぼ限られます。連体修飾のときにはあれほど厚かった生活の側が、副詞形ではほとんど姿を消してしまう。逆に「さ」を付けて名詞にすると、偏りは反対を向きます。料理の素朴さ、暮らしのそれとは言えても、疑問のそれは座りが悪い。同じ語幹から派生した三つの形が、それぞれ別の山だけを引き継いでいることになります。二つの山が同居しているのは、連体修飾という一つの窓の中でだけです。語形を替えて数え直すと、同居は解けて、片方ずつが出てくる。この手続きは、辞書が立てた語義の分割が本当に必要かどうかを確かめる、ごく安価な検算にもなります。派生形をまたいで山が保たれるなら、分割は語の側の事実に近い。片側だけが引き継がれるなら、分割線は語形の交替にも従っていることになり、意味だけを見て引いた線より、少しだけ確かなものになります。
計量の側の事情も一度見ておいたほうがよさそうです。共起の強さは生の頻度では測りません。よく使われる名詞は何にでも付くので、生の頻度で並べると、その語と特に相性がよいわけではない相手が上位に来てしまう。そこで、二語が一緒に現れる確率を、それぞれが単独で現れる確率の積と比べる指標が使われます。ただしこの種の指標には、めったに出ない組み合わせを過大に評価する癖があることが知られている。道具に癖があるのだから、出てきた山の形も、道具の癖のぶんだけ歪んでいます。二つの山という見え方自体、どこまでが対象の性質でどこからが測り方の性質なのか、線を引くのは簡単ではありません。
それでも残るものがあります。核が一つだとして、評価の向きが山ごとに逆になっている。思考の側に付くと、自分の問いに付ければ謙遜、他人の問いに付ければ相手を子ども扱いする含みが出る。生活の側に付くと、ほとんど肯定になる。同じ核から出た符号の反転が、修飾先を替えるだけで起きている。語が評価を持っているのではなく——ここが引っかかりの正体でした——修飾先が評価を決めている。分布は意味の代理として使える指標ですが、代理は本体ではない。
人物に使うときにこれが効きます。素朴な人、と書いた一語だけでは符号が定まりません。定めるのは近くに置かれた対比です。洗練という語を近くに置けば見下しに転び、打算という語を近くに置けば賛辞になる。共起の統計が教えてくれるのは平均的な符号までで、目の前の一文でどちらへ転ぶかは、書き手が半径二十字のうちに何を置いたかで決まります。褒めたつもりが届かないときは、たいてい語ではなく隣の語を見たほうが早い。