簡素な食事、簡素な建物。どちらも問題なく通ります。ところが、簡素な人、と書くと座りが悪い。似た意味に見える「質素な人」なら何の抵抗もなく通るのに、こちらは人格に届かない。二つの語は生活の水準について同じことを言っているようでいて、掛かる先が違います。この差は、字を見ると理由がわかります。
「素」は、染めていない生糸、白いままの絹を表す字です。素材、素朴、素顔、素足——どれも加工される前の状態を指している。表面がまだ手を加えられていない、という話です。対して「質」は中身、実質のほう。質素は中身の側から倹しく、この二字は形の側が省かれている。人格は中身の側にありますから、白生地の字では届かない。感覚的な理由を持ち出さなくても、字の分担で説明がつきます。
分担がはっきりしているぶん、この語は二つの方向へ伸びました。ひとつは手続きや構造の側です。事務や手続や制度の簡素化——「化」を付けた複合が行政や企業の文書に定着していて、ここには美的な評価がまったく入っていません。減らすのはコストと工数です。もうひとつは生活様式の側で、簡素な暮らし、と言うときには明確な美的評価が乗る。同じ二字が、経費削減の語彙と、価値ある生き方の語彙を兼ねている。
分裂は、接辞のふるまいでも確かめられます。「化」が付く形が成立するのは、この語だけです。質素化も粗末化も、日本語としては立ちません。「化」は、ある状態へ意図的に移す操作を名詞にする接辞ですから、操作の対象になりうるものにしか付かない。手続きや構造は設計して減らせるので付く。人柄や暮らしぶりは、外から操作の対象にしにくいので付かない。接辞が付くかどうかを見るだけで、この語が制度の側に片足を置いていることが判定できます。
対義語を探すと、分裂はもっとはっきり出ます。手続きの側の反対は「煩雑」です。生活様式の側の反対は「華美」になる。煩雑と華美は互いに何の関係もない語です。ひとつの語が、無関係な二語をそれぞれ別の文脈で対義に取るということは、その語の内部で意味が二本に割れているということにほかなりません。片方だけを見て使い方を決めると、もう片方の文脈で読者が別の含みを受け取ります。
制度の側の使われ方には、はっきりした型があります。日本の税制をめぐる議論では、公平・中立・簡素の三つが原則として並べて挙げられるのが通例です。ここでの意味は美しさではなく、納税者が理解でき、行政が執行できること。白生地を指していた字が、行政コストの低さを名指す位置まで来ている。
同じ食卓を三つの語で書き分けてみると、実務上の差が見えます。粗末な食事と書けば不足であり、出した側への非難が薄く混ざる。質素な食事なら、倹しさを選び取った人の像が立つ。この二字を選ぶと、量や質の話から離れて、皿数や献立の構成が減らされているという形の話になる。三つは同じ食卓を指しながら、それぞれ別のものを問題にしている。人物の部屋や服装を書くときには正確に効きますが、そこから人柄まで運ばせたい場合、語は途中までしか運んでくれない。残りは別の語に渡すか、行為で書くしかありません。