人物評を書いていて、強みと書くか強さと書くかで迷うことがあります。二つは入れ替えられません。強みは具体的な優位を指し、足の速さでも交渉の粘りでも、指させる一点に着地する。もう片方は指せない。程度を表す名詞であって、どの一点かを含まないからです。同じ形容詞から作られた二語がこれほどきれいに役割を分けているのは、意味の違いというより、接尾辞そのものの性質の差によります。
「さ」はほとんど何にでも付きます。速さ、長さ、美しさ、新しさ、そして辞書に載っていない新造の形容詞にも自動的に付く。程度を持つ語なら、付かない例を探すほうが難しい。一方「み」が付ける先は限られています。深み、厚み、重み、丸み、甘み、苦みと数えられますが、速みとも長みとも美しみとも言えません。付く語が決まっているというのは、規則で作られているのではなく、一語ずつ覚えられているということです。近年の俗語で「み」を無理に広げる遊びが目につくのは、逆に言えば、そこが本来閉じているからでしょう。閉じているものを開けるから目立つ。
形態素解析器を作る人は、この差を設計の分岐としてそのまま引き受けることになります。規則的に生成される形は規則で処理し、語彙化した形は辞書に登録する。全部を辞書に持てば辞書が膨れ、全部を規則に任せれば存在しない語まで受理してしまう。線をどこに引くかが解析の精度を決める。この対では、片方が規則側の語で、もう片方が辞書側の語です。書き手が感じている二語の手触りの差は、この線の両側にあるという事実に対応しています——一方は演算の結果、もう一方はすでに出来上がった品物、という差です。辞書側の語が対で定型化しているのも示唆的で、強みと弱みは、指させる一点どうしを突き合わせる場面の決まり文句として並びます。
「さ」名詞にはもう一つ、見落としやすい性質があります。正の値を含意しない、という点です。「長さ」は短いものにもあり、「高さ」は低いものにもある。同じように、弱い人物の強さも問題なく測れてしまう。値がゼロに近いだけで、尺度としては何ら成立を欠かない。ところが存在文にすると事情が変わります。彼には強さがある、と書いた瞬間、これは尺度ではなく評価へ切り替わる。中立な尺度名が、存在の述語と組んだときだけ正の値を含意する。測っているのか、認定しているのか——同じ名詞で両方できてしまうので、区別は文型のほうに任せるしかありません。数値と結びつくのも尺度側だけで、数直線に乗るのはこの名詞であって、実体を指すもう一方ではない。
原稿の運用に落とすと、まず検索が効かないという問題があります。形容詞の形で検索しても派生名詞は出てこない。文字列としては別物だからです。人物の描写が偏っていないか調べるなら、語幹だけを取るか、派生形を並べて指定する必要がある。そのうえで、拾った箇所を尺度と実体に仕分けます。尺度で書いた箇所は、測り方が場面に書かれているかを見る。一度の爆発的な出力なのか、長い戦いでの落ち込みの少なさなのか、測り方を変えれば順位は変わるからです。実体で書いた箇所は、指せているかどうかだけを確認すればいい。指せていない実体は賛辞であって、次の場面の材料になりません。