近代の小説を開いて、素敵という語がどこに置かれているかを追っていくと、置かれ方に偏りがあることに気づきます。経験的な印象の域を出ませんが、多くは会話文か、手紙の文面か、人物の内語として現れる。三人称の地の文で、語り手が自分の判断としてこの語を差し出している例は、探すと意外に少ない。同じ時代の「美しい」や「立派な」が地の文に何度も出てくるのと比べると、扱いが違います。頻度の問題ではなく、居場所の問題として偏っている。
最初に思いつく説明は、言文一致を経た近代の散文が、語り手の主観を表に出さない方向へ進んだ、というものです。写実を重んじる書き方では、対象の側にあるものを書き、書き手の反応は書かない。評価はできるだけ人物の口へ移し、地の文には出来事だけを残す。筋は通っています。ただ、その説明で片づけると「美しい」が地の文に残っていることが説明できません。あれも十分に主観的な語です。主観性一般が排除されたわけではない、ということになる。
差がどこにあるかを考えていくと、隠せるかどうかという線が引けそうです。美しいは、対象の属性を述べているふりができます。整った形、均衡、色。属性の記述に偽装して、判断を対象の側へ預けられる。それに対してこの語は、見た瞬間の反応そのものを言っている。心が動いたという出来事の報告であって、対象の性質の記述ではない。表記が当て字であること——漢字が意味を担っていないこと——も効いていると思います。字面から属性を読み取る手がかりがない。語源については複数の説があり、確定していません。字が意味を支えない語は、話者の反応だけを裸で運ぶことになる。
語のふるまいにも同じ性質が出ています。否定形にすると座りが悪い。素敵ではなかった、と書いても、何がどう不足していたのかは伝わらず、評価が下りなかったことだけが残る。過去形も同様で、素敵だった、は回想としては使えても、その瞬間の驚きは半分しか運びません。属性を述べる語なら、否定しても過去へ送っても情報は保たれます。反応を述べる語は、反応が起きた時点から離れるほど中身が薄くなる。この非対称は、対象の性質を言っているのではないという先の見立てを、文法の側から裏づけています。程度副詞との相性にも同じ癖が出ます。とても素敵、はよく使われるのに、やや素敵、少し素敵はほとんど言われない。反応は起きたか起きなかったかであって、途中の目盛りを持たないからです。属性なら程度を刻めます。反応は刻めない。段階を持たないという事実が、これが尺度ではなく出来事を指していることの、かなり直接的な証拠になっています。
そう考えると、この語が地の文を避けたのは、主観だからというより、時間を連れてくるからだと言えます。誰かが今それを見て、今心を動かした。その瞬間が語に貼り付いている。透明な語り手を作ろうとしていた書き手にとって、瞬間を持ち込む語は扱いにくい。語り手が画面の中へ一歩入ってしまうからです。台詞や手紙なら、瞬間の持ち主は人物なので何も問題は起きません。居場所が会話の側に寄ったのは、上品さや流行よりも、構造上そこしか空いていなかったからだと考えるほうが収まりがよいでしょう。
排除の理由を主観性に求めると説明できない例が、もう一つあります。人物に密着した語りを採る作品では、地の文にこの語が出てきても違和感がない。三人称でありながら、視点人物の見たものだけを書き、判断も人物のものとして流していく書き方です。そこでは地の文と内語の境目が消えているので、語ったのは語り手ではなく人物だということになる。避けられていたのは地の文という場所ではなく、語り手が透明であるという建前のほうだったと考えるほうが、例の並びには合います。緩みが始まった時期と、この語が地の文に出はじめる時期がどこまで重なるかは、用例を実際に並べてみないと言えません。ただ、居場所を決めているのが語の格ではなく語りの構えだという見通しは、そのまま検証の設計に使えます。
現代の一人称小説では、地の文がそのまま人物の声なので、この制約は解けています。語り手が画面に入ることが前提なら、瞬間を運ぶ語も置ける。ただし解けたのは居場所の制限だけで、瞬間が一度きりであることは変わりません。同じ人物が三章のあいだに三度これを口にすると、三度目は驚きではなく口癖として読まれる。読者は語を数えていないのに、反応の目減りだけは正確に受け取ります。素敵を二度目に置くときには、一度目とは違う対象を選ぶか、置かずに済ませるかのどちらかしかない。