宝飾を扱う現場では、光沢の質を「照り」、真珠層の厚みを「巻き」と呼び分けると言われます。日常語なら一括して「きれい」で済むものを、取引の必要から二つの独立した尺度に分解している。分解されているのは物ではなく、評価の軸のほうです。同じ球体を前にして、値をつける人と、比喩に使う人とは、はじめから別の語彙体系の中に立っている。
日常語の側にも、実は層があります。玉、真珠、パール——和語、漢語、外来語という三つの出自が、そのまま位相の差になって残っています。玉は古典和歌以来の語で、丸くて美しいものの総称に近く、涙にも露にも使われてきました。輪郭がやわらかい。漢語のほうは書き言葉の重みを持ち、博物的・分類的な響きを帯びます。外来語は最も新しく、商品と広告の匂いがする。比喩として置いたとき、この三つは同じ物を指しながら、語り手の教養と時代と職業まで一緒に運んでしまいます。
役割語の観点を重ねると、事態はもう少し込み入ります。丸く白い光沢を褒める比喩は、翻訳小説と少女小説を経由して日本語に定着した経路が濃く、そのため今日この比喩を口にする話者には、上品さや古風さという属性が自動的に貼りつきます。作中人物がこの言い回しを使うと、内容よりも先に階層と話体が伝わってしまう。比喩は装飾であると同時に、話者の名札でもある。
断層は、比喩の階層をひとつ上がったところにも走っています。鉱物学には真珠光沢という分類語があり、雲母や滑石のように、層状の構造が光を返す鉱物の輝きを指すのに使われます。分類語ですから、程度は持ちません。ある鉱物の光沢が真珠光沢であるかないか、それだけが問われる。これに対して日常語の比喩は、連続的な程度を前提にしています。少し似ている、かなり似ている、という言い方が成立してしまう。二値の語彙と、程度の語彙。同じ光を指しながら、片方は分類の網に置き、もう片方は距離を測っている。
専門語と日常語の断層は、成因の扱いにも出ます。生物学的には、真珠層は貝が体内に入った異物を包み込む反応として形成されるものです。つまり異物への防御の産物であって、貝にとっては不都合の処理にほかならない。ところが日常語の比喩は、結果として現れた光沢だけを見て、その由来を一切参照しません。褒め言葉として使われるとき、包み込まれた異物のほうは語彙の外に置かれている。この断層は、書き手にとっては使える隙間です。成因まで知っている人物にこの比喩を使わせれば、賛辞が一瞬で別の意味に反転する。
だから選ぶべきは、光沢の描写ではなく語彙の層のほうだと考えたほうが実際的です。地の文が和語系で組まれているところに漢語の比喩を落とせば、そこだけ視線が硬くなる。全体が翻訳調なら外来語のほうが馴染む。取引や鑑定の場面なら、日常語の比喩を捨てて、照りや巻きといった業界の尺度語をそのまま出すほうが、人物の手つきが立ち上がります。同じ白い光を、どの共同体の言葉で呼ばせるか——決めているのは美意識ではなく、その人物がどこに属しているかの申告です。