拍を数えるところから始めてみます。「はだをなでるような」は九拍。仮に「そよ風が肌を撫でるように吹いた」という一文を書くとすると、全体十七拍のうち九拍、およそ半分をこの修飾句が占めることになる。修飾句が半分を占める文というのは、情報の密度としてはかなり薄い。それでもこの種の文が書かれ続けるのは、密度以外の何かが働いているからで、その何かを言い当てたくて拍を数えています。
日本語は述語が末尾に来る言語なので、修飾が伸びるほど、文の帰結は後ろへ押しやられます。読み手は「そよ風が」で主語を掴んだあと、九拍ぶんの様態を保持したまま、述語が来るのを待たされる。統語的には、これは処理負荷が増えている状態です。ところが読者体験としては、負荷というより緩慢さとして感じられる。撫でるという緩やかな動作を描くのに、文の構造そのものが遅くなっている。形式が内容を模倣する、いわゆるイコン性の一例として説明したくなります。
しかしこの説明は、都合よく作った事後解釈の匂いがします。反例を自分で用意すると、すぐ崩れる。「肌を刺すような」は八拍で、九拍とほとんど変わりません。刺すのは瞬間の動作であるにもかかわらず、修飾句の長さは撫でる場合とほぼ同じです。もし拍数が速度を決めているなら、両者は同じ速さに読まれるはずですが、実際にはそうならない。拍数それ自体は、体感速度をほとんど説明していない。
拍数の代わりに、語彙密度で見直してみます。九拍のうち、内容を担っている語は二つしかありません。部位を指す名詞と、動作を表す動詞。残りは格助詞、助動詞、比況の形式で、いずれも文法的な接続を担う機能語です。内容語と機能語の比で言えば、この修飾句は機能語に大きく傾いている。文体論で語彙密度と呼ばれる指標を当てれば、低い値が出るはずの部分です。長さのわりに情報が少ない、という直感は、この比に対応しています。
そして、情報が少ないことは欠点とは限りません。読み手は機能語の連なりを、内容語ほどの注意を払わずに通過します。通過に要する時間はかかるのに、記憶に残す負荷は小さい。結果として、読んでいる時間だけが伸びて、覚えるべきことは増えない区間ができる。緩慢さの正体は、動作の意味ではなく、この非対称のほうかもしれません。ただしこれも、比況の「ような」を使う修飾句すべてに当てはまる話で、この句に固有の説明にはなっていません。
では何が効いているのか。手がかりは、単文の長さではなく、周囲との差にありそうです。短い文が続いたあとに長い修飾句を置くと、そこだけ時間が伸びて感じられる。逆に、長い文が三つ続いた後の九拍は、もはや長さとして知覚されません。効いているのは絶対値ではなく分散です。文長の分布が平坦な原稿では、どんな修飾句を足しても速度は変わらない。文体論で文長の平均だけでなく標準偏差を見るのは、こういう理由によります。平均が同じでも、ばらつきが違えば読み心地はまったく別物になる。
そう考えると、語彙のリストから修飾句を選ぶという作業の位置づけが少し変わります。この句が緩やかさを出すのではなく、この句を置く場所が緩やかさを出す。同じ九拍が、前後の文次第で、余韻にも冗長にもなる。原稿を直すとき、修飾句そのものを別の候補に取り替えても手応えがないことがありますが、そういうときは選択肢の問題ではありません。直前の二文が長すぎるだけです。表現の巧拙を語の側で解こうとして詰まったら、視野を一文から三文へ広げる。多くの場合、詰まりの原因はその範囲に入っています。