こぼした水がシャツに広がっていくとき、輪の直径は一定の速さでは伸びません。最初の数秒でいちばん大きく広がり、そのあとは目に見えて鈍る。この鈍り方には、よく知られた形があります。無数の小さな不規則移動の積み重なりとして浸透を記述すると、到達する距離は経過時間の平方根におおよそ比例する。四倍の時間をかけても、進むのは二倍まで。等速で動くものを頭に置いていると、この関数形は直感に反します。
鈍り方にも種類があります。平方根に比例する伸びは、いつまでも鈍りますが、止まりはしません。四倍の時間で二倍、百倍の時間で十倍。増え方は際限なく緩むかわりに、増え続けること自体はやめない。これに対して、熱い茶が冷めていくときのような指数の減り方は、一定の時間が経つごとに残りが同じ割合ずつ削られるので、実用上はどこかで消えたと言えます。半分になるまでの時間さえ決まれば、以後の予定はすべて決まる。どちらも「だんだんゆっくりになる」現象ですが、終わり方がまるで違います。この句で書かれるものがどちらの型に属するかは、書き手が決めておいたほうがいい。指数の側なら、その感覚はいつか抜けます。平方根の側なら、抜けはしないが、それ以上深くも行かない。
染み込むという語が持っている時間の型は、この形のほうです。冷気にせよ、他人の一言にせよ、この句で書かれるものは、触れた最初の瞬間にいちばん深く入り、そのあとは同じ勢いで奥へ行かない。並べてみると差がはっきりします。刺す、貫く、というあたりの動詞は等速直線の像で、平方根の鈍りを含まない。同じ深さに届いたとしても、途中の進み方が違う。到達点が同じでも関数が同じとは限らない、というのは拡散を扱うときの基本的な注意です。
もう一つ、この現象には条件があります。表面に供給が続いているあいだしか、内側へは進まない。水滴が乾いてしまえば輪はそこで止まり、内部では濃度が均されていきます。比喩に移しても事情は変わりません。この句が据わるのは、接触が持続している場面です。すれ違いざまに一言浴びせて去った相手について書くと、時間の指定と場面が食い違う。同じ内容を毎日受け取っている人物になら、無理なく載る。使いどころを決めているのは、感情の深さではなく接触の持続時間のほうです。
進む向きを決めているのは、内と外の差です。拡散を扱う基本の法則は、物質の流れが濃度の傾きに比例すると述べています。傾きが急なほど流れは速く、傾きが平らになれば流れは止まる。中身が尽きたから止まるのではなく、内と外が同じ濃さになったから止まるのです。人物に置き換えると、同じ言葉を毎日浴びていた人が、ある時期からそれを何とも感じなくなる現象に対応します。相手が言葉を弱めたわけではありません。受け取る側の内側が、外と釣り合ってしまっただけです。だから慣れを書く場面で、刺激のほうを強める必要はない。外の濃度を上げるより、内側がいつ追いついたのかを一行で示すほうが、現象としては正確です。そしてこの均衡は、外側が薄まった瞬間に逆流も起こします。相手が黙った途端に苦しくなる人物には、ちゃんと理屈がある。
深さの話も、ついでに片づけておきます。皮膚、腑、骨、髄。この並びには迷いがなく、一列に見える。ところが心まで沁み入る、という言い方を同じ列に置こうとすると手が止まります。心は解剖学の軸に乗っていないので、骨より深いとも浅いとも言えない。同じ物差しに載らない二つを、深さという一語でつないでいたことになります。だから髄にも心にも届いた、と書くと収まりが悪い。別々の物差しの目盛りを足し合わせた文になるからです。
深いほど強い、という前提も検算しておく価値があります。皮膚に滲む程度の冷たさが、髄まで届く痛みより弱いとは限りません。指先の凍えのように、浅くても行動を止めてしまう感覚がある。深さと強さは相関こそすれ、片方が決まればもう片方も決まる関係にはなっていない。そして、深さだけを見ていたことが最大の見落としでした。到達点を縦軸に、そこへ至る時間を横軸に取れば、表現は平面の上に散らばります。氷水のような冷たさは、深くて速い。じわじわ効いてくる後悔は、深いが遅い。二軸にすると、埋まっていない場所が見えてきます。浅いところに長く留まる感覚——数日抜けない微熱のような違和感——を名指す語は、辞書の中に十分にはありません。足りないものは、探す枠を変えないと足りないと気づけない。