「子どもの頭を撫でた」という一文を英語に移そうとすると、訳者はそこで止まります。手のひらを一方向に滑らせる動きを表す語を選ぶか、軽く触れて離す動作を繰り返す語を選ぶか、あるいは愛情の含みを前面に出した語を選ぶか。どれを取っても、原文になかったものが一つ増える。何も足さない選択肢が用意されていない、という形の困りかたです。訳しにくさというより、日本語の側が何を言わずに済ませていたかが、そこで初めて見える。
英語側を並べてみると事情ははっきりします。あの一群の動詞は、動作の幾何だけでなく、動作をする者と受ける者の関係まで語の中に抱え込んでいる。動物に向けるのが自然な語があり、近しい相手に向けるときに選ばれる語があり、痛みや汚れを取るための実務的な接触を指す語がある。話者は動詞を選んだ時点で関係を宣言してしまうわけです。ロマンス語系にいたっては語源の層でそうなっていて、愛情の含みを持つ動詞は、いとしい・大切だという意味のラテン語の形容詞に遡るとされています。語の中に情動が化石として埋まっている。日本語のほうは一語で足りるかわりに、その一語からは関係が何も読み取れません。
ここで、日本語のほうが粗いという結論に飛びたくなりますが、いくつかの複合語がそれを止めます。肩の線がなだらかであることを言う語、片端から斬っていくことを言う軍記物の語、安堵を胸の動作で表す慣用句。どれにも情愛はありません。共通しているのは、面に沿って一方向に手や刃を滑らせるという幾何だけです。つまりこの動詞の芯は、最初から情動を含んでいなかった。粒度が粗いのではなく、情報の積み場所が違う。おもしろいのは、あてられる漢字のほうは逆で、漢籍では民を安んじ手なずける意味を担い、安撫や撫民のように統治の語彙として働いてきました。字は情動どころか政治まで積み込んでいるのに、和語はその重みを引き受けていない。
積まなかった情報がどこへ行くかは、逆方向の翻訳を見るとわかります。愛情の含みを持つ外国語の動詞を日本語に移すと、動詞だけでは情報が落ちるので、訳文には副詞が足される。そっと、いとおしむように、確かめるように——原文に対応する語がないのに、訳文の側にだけ現れる部品です。翻訳された恋愛小説の文体が原文より装飾的に見えることがあるとすれば、訳者の趣味というより、この構造上の補填が積み重なった結果だと考えられます。動詞が中立であるぶん、隣接する成分に働いてもらわなければ、関係が立ち上がらない。
書く側にとっての問題は、その隣接成分がすぐ摩耗することです。そっと、やさしく、いとおしむように。使い勝手がよいものから順に手垢がつき、副詞を足すほど場面が薄くなることがある。副詞は誰でも同じものを選ぶので、差がつきにくいのです。もう一つの預け先が、対象と方向のほうです。誰が誰の、どこを、どの向きに、どれだけの回数で。髪の生えぐせに逆らったのか沿ったのか。頬骨の上で止まったのか、耳の裏まで行ったのか。手のひら全体だったのか、指の背だったのか。関係を語の中に埋め込む言語ではないのだから、関係は場面の側にいくらでも置ける。動詞が中立であることは、不足ではなく余白でした。