この語を会話の中で使う人に、ほとんど会ったことがありません。書かれた文章の中では今も普通に見かけるのに、口から出てくるところに立ち会った記憶がない。話し言葉から退いて、書き言葉の側にだけ残った語がある——そのこと自体は珍しくありませんが、退き方に偏りがあるのが気になります。この副詞は、書き言葉のうちでも地の文にしか出てこない。小説の中の登場人物が、台詞としてこれを口にする場面は、探すとかなり少ない。
もとは物が打ち当たる音を写した語だったとされています。板を叩く、扇を鳴らす、そういう乾いた一撃の音。軍記物などの古い文語に、打つ動作を伴う用例が見られます。そこから、心の中で何かが決着する瞬間へ意味が移った。膝を打つという慣用の言い回しが、両者の中間に立っているように見えます。手を打つ物理の音が残っていて、同時にもう、気づきの比喩でもある。音から内面へ渡る途中の橋が、慣用句として化石のように残っている——そう読むと、この語の来歴は追いやすくなります。
近代の小説が、この語を地の文に迎え入れました。回想を書き、内面を書き、思考の転換点を書く必要が生じたとき、瞬間の到来を告げる語が要る。ただ、そこで採用された語が、登場人物の口には移らなかった。ここが引っかかります。書き言葉で使われる語は、たいてい少し遅れて硬い話し言葉へも流れ込むものです。この語はそうならなかった。理由をひとつに絞る自信はありませんが、ひとつ思い当たるのは、これが自分の内面をあとから記述する語だという点です。気づいている最中の人は、自分が気づいたと実況しません。実況できるのは、外から見ている者だけ。
来歴のほうからも、同じ偏りに説明が付きそうです。打撃音を写した副詞は、もともと声に出して語られる文芸の中で育ちました。軍記物や、それを引き継いだ講釈の調子には、動作の一撃を音で示す語がいくつも並んでいます。語り物では、語る者が場面の外に立ち、出来事の到来を聞き手へ告げる。人物の内側から出た声ではなく、告げる側のための語彙だったと言い換えてもいい。同じ系統には促音の入った強調形もあって、睨む動作に添える言い方として、いまも芝居がかった調子の中に残っています。その後、二つの形は別々の方向へ分かれました。促音の入るほうは外から見える動作の側に留まり、入らないほうが内面の転換を引き受けた。ひとつの出自から、外側の担当と内側の担当が枝分かれしたことになります。
似た位置にある語と比べると、輪郭が少し出ます。無自覚に、理由なく訪れる気づきを指す副詞が別にあって、そちらは会話でも生きている。両者の差は、音の有無ではないかと考えています。一方は無音で、思考の表面に静かに浮かぶ。こちらは打撃音を引きずっているぶん、到達点が明示される動詞を要求する。気づく、当惑する、立ち止まる——動きの終わりが見える動詞となら座りがよく、ただ思う、程度の動詞に付けると落ち着かない。もっとも、この語感は個人差が大きいはずで、断定はできません。
現代の書き手にとっては、この副詞は文体の目盛りとしても働きます。時代小説や硬めの随筆の地の文に置いても何も起こりませんが、話し言葉に近い一人称の語りへ落とすと、その一語だけ紙の色が変わる。語り手が急に書き言葉の側へ寄ったように読めるからです。だから、口語的な文体で通してきた原稿に一度だけこれを混ぜれば、そこが段落の切れ目として機能します。逆に、地の文全体が硬く整っている原稿では目盛りになりません。周囲が同じ格の語で埋まっていれば、差が出ないからです。文体の指標として使える語は、その原稿の平均から離れているあいだだけ使える。使うほど平均のほうが引き寄せられて、効き目は落ちていきます。一作に一度という制限は、趣味の問題ではなく、目盛りを目盛りのまま保つための実務的な条件です。
はっきりしているのは、地の文でこれを使ったとき、語り手が半歩前に出るということです。視点人物の内側に密着した三人称で書いている最中にこの副詞を落とすと、その一語のあいだだけ、人物と語り手の距離がわずかに開く。誰かが外から見ていて、いま気づいたぞ、と告げている感触が出る。欠点として避けることもできますし、承知のうえで使うこともできる。長く密着していた語りが、一度だけ距離を取ってから戻る。その呼吸を作るために、打撃音の残った古い副詞が使えます。