髪に手のひらを当てて、根元から先へ一度だけ滑らせる。その動作を名指す言い方には、継ぎ目が三つ入っています。接触の様態を表す前項、結果を固定する後項、そして比況の部分。三つとも別の時代に別の理屈で足された部品で、一息に読める短い句のわりに、成り立ちは層になっている。ばらしてから組み直すと、この句がなぜ実際の動作以外の場面でよく働くのかが見えてきます。
まず字と語がずれています。あてられる漢字は手へんに音符を組み合わせた形声の字で、漢語の側では手を当てていつくしむ、慰めるという含みまで担い、撫育や愛撫といった熟語に残っています。一方、和語のほうは古くは下二段に活用し、意味の芯は接触の様態にとどまる。いつくしみを表す部分は字が持ち込んだもので、語そのものが最初から抱えていたわけではない。ちなみにこの和語を、なだめる、なつく、といった語と同根とみる説もありますが、確定した見解ではありません。字義と語義のあいだにできた隙間が、この語の使い勝手をやや広くしている。
次の継ぎ目で、動きの性質が変わります。後項として付く「つける」は、押しつける、縛りつける、焼きつけるのように、対象をその場に留める働きを持つ部品です。接触の様態だけを言っていた前項にこれが乗ると、往復や反復ではなく一方向の運びになり、終わったあとに形が残ることになる。同時に圧も入ります。単に手を滑らせるだけでは何も固定されませんから、後項が必要とする力の分だけ、前項の軽さが打ち消される。柔らかい語を借りながら、実際には押さえる動作を指している——この矛盾が、句の手触りの正体です。
もっとも、この後項の働きは一つではありません。叱りつける、にらみつける、怒鳴りつける。この一群で足されているのは結果の固定ではなく、相手へ向かう力の強さと一方的さです。焼きつける、縛りつける、貼りつけるの一群が終わったあとの状態を担うのに対して、こちらは向きと勢いだけを担っている。同じ音の後項が、二つの仕事を掛け持ちしているわけです。どちらが前に出るかは前項の性質で決まり、強い前項なら向きが、弱い前項なら固定のほうが目立ちます。そして髪に手を当てる動作では、二つが同時に働く。一方向へ強く向かう運びと、終わったあとに残る形と。柔らかいはずの前項に対して後項が二重に効いてくるので、句全体の力の勘定が合わなくなる。優しい語に見えて、分解すると押さえる成分ばかりが出てくるのは、そのためです。
同じ前項に別の後項を付けてみると、後項の性格差がはっきりします。下ろす、上げる、切る。これらが足しているのは向きや範囲であって、結果状態の固定ではない。だから前項の軽さがそのまま残り、句全体も軽いままでいられる。固定を担う後項と組んだときにだけ、柔らかさと強さが同居する妙な形ができる。日本語の複合動詞の中で、前項がここまで弱く、後項がここまで強い組み合わせは、そう多くありません。
前項の側を入れ替えてみると、事情がさらに見えます。こすりつける、は言えますが、前項がすでに摩擦を含んでいるので、後項が固定を足すと押しつけるような荒い動作になる。さすりつける、はほとんど使われません。さするには往復が織り込まれていて、一方向に形を残すという後項の要求と正面からぶつかるからでしょう。触るは接触の事実だけを言う語なので、そもそも形を残す運動になれない。この前項が後項とうまく組めたのは、方向も回数も速度も指定しない、いわば無色の接触だったからです。無色であるぶん、後項の言うとおりの形になれる。複合動詞の前項に求められているのは、多くの場合、自分の色を主張しないことでした。ついでに言えば、同じ二拍が名詞に入り込んだ撫で肩や猫撫で声では、接触の様態が体つきや態度の記述に転じています。
三つめの継ぎ目である比況が、そこにさらに一段かぶさります。「ように」が付いた時点で、誰も実際には撫でつけていない。残るのは、一方向に、圧をかけて、形を残すという運動の形だけです。だから対象は手や髪でなくてよくなる。風が丈の低い草を一方向に倒していくとき、西日が壁の凹凸を消していくとき、この言い方が働くのは、そこに柔らかさと固定という組み合わせが同じ形で現れているからでした。三つの継ぎ目のうち、比喩の射程をいちばん広げているのは、それ自体は意味を持たないように見える最後の部品のほうです。