四拍と六拍。たった二拍の差ですが、文に差し込んだときには読む速度にそのまま効いてきます。「するどい」で四拍、「はものような」で六拍。意味の方向はほぼ同じところを指しているのに、占有する長さが違う。文体を計量的に眺める立場からすると、比喩とは意味を足す操作であると同時に、文長の分布をいじる操作でもあります。緊迫した場面で直喩がうまく働かないとき、原因は語の質ではなく長さの側にあることが少なくありません。喩える先が的確でも、そこに至るまでに読者を待たせすぎていれば、切迫は途中で抜けてしまう。
計量文体論には、文章の重さを測る指標のひとつとして語彙密度があります。総語数のうち内容語——名詞・動詞・形容詞・副詞——が占める割合で、これが高いほど一文あたりに詰め込まれた情報が多く、読者は減速する。助詞や助動詞の比率が高い文は、するすると流れていく。直喩は名詞と判断をまとめて持ち込むので、挿入した瞬間に密度が上がります。素材を指す名詞と、それに似ているという判断が、一度に文へ入ってくるからです。しかも直喩の素材は、たいてい場面に実在しません。読者は目の前の光景を保持したまま、そこにない物体を一度想像し、属性だけ抜き取って捨てる。この往復のぶんだけ処理が重くなる。
平均よりも効くのは、分布のばらつきのほうです。平均文長が同じ二つの文章でも、どの文もほぼ同じ長さで並んでいる場合と、十字の文と八十字の文が交互に来る場合とでは、読み心地がまるで違う。前者は単調に、後者は起伏として感じられる。緊迫の場面で短文を連ねるのは、この分散をいったん小さく畳む操作です。そこへ六拍の直喩をひとつ落とすと、畳まれていた分布が一箇所だけ跳ね上がる。効くときは、この跳ね上がりが効いている。逆に、もともと長短の入り乱れた地の文にもう一つ長い文を足しても、跳ね上がりは埋もれて見えません。同じ比喩が効いたり効かなかったりするのは、比喩の周囲にある文のほうが違うからです。
日本語が修飾を前に置く言語であることも無視できません。刃物のようだ、と書き出した時点で、読者はまだ何が喩えられているのかを知らない。声なのか、視線なのか、風なのか。修飾部が長いほど被修飾語に到達するまでの待ち時間が伸び、その間、読者は宙づりのまま情報を保持し続けることになります。修飾を後ろへ回せる言語であれば、被修飾語を先に置いてから喩えを足せるので、この保持は生じません。切れ味という言い方が直喩そのものに当てはまるとすれば、それはこの保持時間の短さのことでしょう。長い直喩には、切れ味という評価がそもそも構造的に届かない。
実務としては、自作を一度だけ機械的に測ってみるのが早い。一段落を取り出し、句点で区切った各文の字数を並べ、そこに直喩の位置を重ねてみる。長い文の中にさらに直喩が埋まっている箇所は、たいてい読み返したときに引っかかっていた場所と一致します。比喩を削るか、周囲の文を短くするか、直喩を独立した一文に切り出すか、判断はそこから始められる。数えることは感覚の代わりではなく、感覚の裏を取る手続きです。裏が取れれば、次からは数えずに済むようになる。