歳時記の秋の部を開くと、寒さの段階を刻む語がいくつも並んでいます。やや寒、うそ寒、そぞろ寒、そして肌寒。いずれも晩秋の季語として収められており、俳句の実作の場では区別して使われてきました。最初にこの並びを見たときの感想は、細かすぎる、というものでした。気温にすればせいぜい数度の幅を、これだけの語で分けている。分けきれるとは思えない。
しかし、しばらく眺めているうちに、その細かさは気温の細かさではないのだと気づきます。歳時記は自然の分類ではなく、体感を言葉で刻もうとした試みの蓄積です。うそ寒の「うそ」は薄いの意とされ、そぞろ寒はどことなく寒い状態を指す。どちらも寒さの量ではなく、寒さへの構えを言っている。実際にこれらを聞き分けられる感覚があるかどうかは疑わしく、むしろ語のほうが感覚を作った側面が大きいのではないかと思えてきます。語彙が先にあり、その区画に体感を当てはめて生活している。
その中に置いてみると、この一語だけは作りが違うことが見えてくる。ほかは寒さの程度や様態を修飾する形で成り立っているのに、これだけが身体部位を含んでいます。どれくらい寒いかではなく、どこで寒さを受け取ったかを言っている。同じ気温でも、足元から来る寒さなら足が、首から来るなら首が語彙に出てくるはずなのに、なぜか表面全体を指す語が代表になった。おそらく、この寒さは局所的ではなく、身体の輪郭に沿って一様に来る種類のものだからでしょう。輪郭を意識させる寒さ、と言い換えられます。
造語の形を並べてみると、もう一つ気づくことがあります。うすら寒い、そら寒い、うそ寒い、そして肌寒い。「〜寒い」という複合形容詞は一つの系列をなしており、前の部分が寒さの質を指定する構造は共通しています。ところが日常語として広く残ったのは、この一語とうすら寒いくらいで、ほかは季語や文語の側に留まった。生活語として生き延びたものが、部位を含む形だったというのは偶然かもしれません。それでも、抽象的な程度指定より、身体の場所を名指す語のほうが摩耗しにくかったと考えると、辻褄は合う。
近代以降の散文でも、この語は気温の記述と心理の記述の両方に使われてきました。冷え冷えとした関係、といった言い方と地続きの用法が広く見られます。ここで立ち止まりたいのは、比喩に転じやすい理由のほうです。輪郭を意識させるという性質が、そのまま孤立の感覚に接続する。他人と隔てられている面を、寒さが教えてくる。だから心理の比喩として使われたとき、この語は冷たさではなく、境界のほうを運んでいる。
書く側の実務として残るのは、この語が温度計ではないという一点です。人物が寒さを感じるためには、自分の身体に注意を向ける余裕がなくてはならない。逃げている途中の人物も、議論に熱くなっている人物も、この寒さを報告しません。したがってこの一語を地の文に置くことは、その瞬間、人物の注意が外の事件から自分の輪郭へ戻ったことの表明になります。季節を書いているつもりで、実際には注意の所在を書いている。秋の描写が冗長に感じられるとき、たいてい原因は語彙よりも、人物にまだ自分を見る余裕がない場面で季節を書いていることにあります。